第1章 病院オーナーは種子田益夫 

茨城県牛久市にある牛久愛和総合病院。同病院が「牛久中央病院」の名称で設立されたのは昭和53年のことで、地域医療の充実というのが設立の趣旨だったが、昭和61年に種子田益夫が密かに同病院を買収して「牛久愛和病院」になって以降、経営体制が明らかに変わっていった。種子田が取った行動は同病院を資金調達のために詐欺の道具に使ったことだった。

種子田の側近だった田中延和が言う。「昭和55年頃に種子田から頼まれアイワグループの傘下に置いた太田製薬の再建に務め、3年後の昭和58年に帝国製薬にM&Aをしてもらうことで再建が完了すると、今度は種子田から病院経営を一緒にやらないかと頼まれた」と本人は語っているが、その際に種子田が言ったのが、実は種子田の長男吉郎の教育だったという。医学部出身ではなく、しかも大学を卒業したばかりの吉郎に医療業界のイロハを手ほどきして欲しい、というのが種子田の申し出だった。

(写真:種子田吉郎。父益夫が買収した7カ所の病院理事長。益夫の巨額の債務に対し知らぬ存ぜぬを通してきたが、それが父益夫の指示だったとしても病院グループのトップとしての社会的責任が問われる。父益夫の死亡で弟妹の益代、安郎と共にいち早く相続放棄をしたが、それならば病院の権益も放棄すべきだ)

「長男吉郎が大学を卒業したのでこれを機会に1か月間、アメリカの医療状況を見てくるように」と種子田から言われ、田中は吉郎を伴い、医療雑誌が主催するツアーに参加した。田中によれば、これが吉郎との最初の出会いであり、病院経営の始まりだった、という。その時点で、種子田は宮崎、小倉、高知など計4か所の病院を保有していたが、それらの病院を統括する東京本部を創設することになり、田中が専務取締役本部長に就き吉郎は常務のポストに就いた。ただし、実態は種子田がオーナーとして基本的な方針を立て、指示が田中と吉郎に出る仕組みになっていたから、田中がいくら経験豊富であったとしても種子田の存在は絶対だった。

冒頭にも挙げたように、牛久愛和病院がグループに追加されたのは田中が中心となって東京本本部が動き出してからのことで昭和61年のことだったが、合計5つの施設を束ねて病院グループの収支バランスを合わせていくことは相当に困難だったようで、「不足資金は種子田から全て資金提供を受けていた」と田中は述懐する。そもそも病院買収の原資となったはずの太田製薬の再建で得た利益も全て病院経営に投資するほど種子田自身は病院の買収や経営維持にのめりこんでいたことが窺える。

「全部の病院が収支が合い整備されるのには、数年の時間がかかったが、その間の資金は全て種子田の別の企業から調達された」と田中は言うが、種子田が率いる愛和グループはアイワコーポレーションを筆頭におおよそ次のグループに分けられる。一つは過去に製薬会社を買収した経緯から「愛和メディカル」「アイケミカル」など医療や医薬品業界に関連した名称を持つ企業群に加え、不動産投資を目的とした「ウメ興産」「ドルフィンリビング」等の企業。また、ゴルフ場の開発や運営を目的とした「アイワリゾート」を筆頭とする企業。さらに種子田の出身地である宮崎県内で迎賓館や別荘の運営、用地開発等を目的とした「宮崎ガーデン」「愛和荘」「汗牛荘」「太陽マリーナ」「ひまわり商事」などの企業群。これほど数多くの企業を擁するグループを率いている種子田を見れば誰もが一度は実業家と考えるが、実際の姿は全く逆で、種子田は虚業家そのものだった。例えばアイワリゾートが所有するゴルフ場は宮崎、兵庫、広島の各県内のゴルフ場を相次いで買収しつつ、例えば「アイワゴルフ新広島コース」のようにゴルフ場の名称を統一的につけてリニューアルしたかのような印象を与える中で会員権を大量に販売、しかも裏でも5000口以上を乱売するというやり方を平然とやってのけた。それゆえ、愛和グーループには設立した企業は数多くあっても、実態があって活動している企業はわずかにすぎず、残る企業は事実上休眠状態にあるか、種子田が悪事を働く際に隠れ蓑にする役割を負っていたかのいずれかであった。

種子田の、明らかになっている経歴を見れば容易に推測できるが、昭和56年に売春防止法違反(場所の提供)、昭和61年に法人税法違反、平成9年に武蔵野信金を舞台にした不正融資(特別背任)等で逮捕され、いずれも有罪判決を受けている。また同信金を巡る事件のさ中で平成13年には東京商銀信用組合での不正融資事件も発覚して、種子田は身柄を東京地検特捜部に拘束された。このように、種子田は常に事件の渦中で資金の調達、循環、洗浄(ロンダリング)を行ってきた。先に挙げた「全部の病院が収支が合い整備されるまでの資金は全て種子田の別の企業から調達された」という言葉が物語るのは、まさに種子田にとっての病院買収と愛和病院グループは密かに一族に資産を残すロンダリングにも相当するもので、他の企業群とは全く別の位置づけにあったことが窺える。

しかし、それでも種子田は資金を調達するために「病院を担保にします。借金をお返しできなければ病院を売却して返済の原資にします」と公言して債権者を騙し被害者を作ったのである。その最大の被害者が、平成6年にアイチという金融業者の森下安道氏から紹介を受けて種子田益夫と面識を持ったT氏であった。

5日連続で料亭接待後はT氏の会社に連日借金頼み

種子田によるT氏へのアプローチは極めてずる賢いものだった。種子田が負っていた債務の一部約1億5000万円の弁済のための資金を貸し付けたのが始まりだったが、種子田は約束の3か月という期限内にこれを完済させたためにT氏は信用した模様だ。種子田は「愛和グループ」を率いて複数のゴルフ場ほか多種多様な事業経営を手掛ける“実業家”として振る舞っていたが、実際に経営が“火の車”状態だったことなど、T氏は種子田の実像を知らないままでいた。

債務を期限内に完済した種子田は、その翌日から5日連続でT氏を赤坂の料亭「口悦」に招待した。その間、種子田は世間話をするばかりで、本音を口にすることは一度もなかった。種子田との会話でT氏が覚えている話と言えば、種子田が「宮崎で車のミュージアムをやりたい」と言い出したことだった。

T氏は種子田が10台以上の車を東京都内の環八通り沿いと愛知県一宮にあるインターオートに預けていたことを聞いていたので、種子田がミュージアムをやりたいと言っている話は本当であろうと思った。また種子田もT氏が世界に5台しかない車を所有していることを知っていたようで、「(それらの車を)ミュージアムの目玉にしたい」という話を口にした。T氏が購入した当時の車1台の定価は3億5000万円(現在の価値は10億円以上)だったが、3億円で売ることにも同意したという。もっとも、その後の種子田の対応を考えると、種子田が本気で車のミュージアムを開設する気があったのかは疑問である。

種子田が本音の話をしたのはT氏を4日5日と連続で口悦に招いてようやくだった。それも、T氏が何事もなく種子田の招待を受け続ける訳にはいかないということで「何か私に話したいことがあるのではないか?」と口火を切ったからだった。種子田はおもむろに「7億円、何とかなりませんか?」と言った。

T氏が詳しい話を聞くと、別の強硬な債権者に返済する資金という。

「月に1割の金利を払うのとは別に食事のたびに2000万円を持参するのが重荷で、暴力団とは縁を切りたい」とT氏に説明し、「これで全て解決します」と答えた。

返済は10カ月後になるが、その間の金利はまとめて天引きして欲しいと種子田は言ったが、種子田が提案した金利は月に5分で、それでは返済に窮すると心配したT氏が「前回と同様に月3分でも十分」と言うと、種子田は「では4分でお願いします」と言う。貸付金の額面が12億円ならば、月4分の金利を差し引いても手取りで7億円余りになるので、種子田は「それで十分です。是非お願いします」と頼んだため、T氏は融資をすることにした。

「種子田の人柄や考え方、過去の事業歴が一部でも分かっていれば、融資はもちろん付き合い方も変わっていた」と関係者が言うように、種子田の実態は、事業家としての顔などあくまで表面的なものに過ぎず、ゴルフ場の経営は赤字続きで火の車状態にあり、会員権は裏で5000人前後も募集と販売をしていたのが実情だった。しかし、種子田はその事実を世間には隠し、唯一利益が出始めていた病院経営をさらに拡大するために周辺から借り受けた資金を集中的に投下していたのである。しかも、実際の種子田の日常は株式市場で仕手戦を仕掛ける相場師への資金融資でハイリスクハイリターンによる利益獲得を目指し、それを業とするほどにのめり込んでいたから、法的にも問題のある行動を繰り返していた。その一つの例が平成14年2月に東京地検特捜部が着手した、志村化工(現エス・サイエンス)の株価操縦事件や日本エムアイシーの仕手戦だった。さらに種子田はベンチャー企業の、株式市場での上場による資金調達に関わり、企業の決算対策で不良債権を引き受けて粉飾に加担するようなことも平気で引き受ける人物であることが次々に判明していったのだ。

種子田によるT氏への猛烈なアプローチがさらに強まる中、12億円の融資を実行した直後から種子田は連日のようにT氏の会社に電話をかけてくるかと思えば、予約も無く唐突に訪ねてきてT氏に面会を求めるようになった。そして、次から次へと「手形が回ってきた」という理由で金策を頼むようになった。

「T氏は、自身の性格や生き様から、一旦口に出して約束したことは必ずやるということを信条としてきたから、種子田からの融資の要望にも可能な限り応じていた。とはいえ種子田の金策の要求が毎日のように繰り返され、正月の元日にも部下の大森という社員をT氏の自宅に使いに出すことさえあった。こうして、返済が一切ないところでエスカレートしていく種子田の要求に対して、さらなる融資に応じることが難しくなり、『これ以上の融資は無理だ』と伝えたことが何回もあったほどだ」と関係者が言う。

ところが、T氏の断りに怯むような種子田ではなかった。「社長の信用ならば可能だから、他から引っ張って欲しい」と言って、T氏の友人たち数人の名前を出して依頼することさえあったという。これには債権者も呆れて、とんでもないことを言う人だと思いながらも、その度に種子田が土下座して、涙を流しながら「何とか助けて下さい。お願いします」と頭を床に押し付けながら繰り返し懇願したため、T氏も折れて協力する方法を考えざるを得なかったという。

種子田は「融資を戴けるなら、どのような担保提供にも応じます」と言い、「愛和グループ」系列のゴルフ場(イタリア所在のゴルフ場も含まれていた)や病院を担保に供すると持ち掛けてきた。何人もの債権者の友人たちも種子田の話を聞いている。

その当時、種子田が経営するゴルフ場は宮崎、広島、兵庫などに複数か所あり、また病院も茨木県牛久市の「牛久愛和総合病院」を核に全国の病院を相次いで買収し経営の安定化を図る最中にあったようで、それならばT氏は周辺関係者に相談できるかも知れないと思った。金融機関からの融資に対する返済が自転車操業状態にある事実、その一方で種子田が旺盛に病院を買収している事実、そしてT氏から借り受けた資金を病院買収や設備の拡充に投下している事実を証言する者も種子田周辺や病院関係者など多数に及んでいる。

種子田による担保提供の話を踏まえ、T氏が知人に相談を持ち掛けると、何人かの関係者から「病院を担保に提供できるなら協力できるかも知れない」という返事があった。

T氏が種子田に「本当に病院を担保に出来るのか?」と念を押して尋ねた。すると種子田は即座に「大丈夫です。息子(吉郎)に理事長をさせていますが、実際の経営者は私なので、担保に入れることは全く問題ありません」と確約したのである。ちなみに、種子田は「灰皿からコップの一つまで(病院にあるもの)全てが自分のものだ」と豪語していた。

しかし、その後も日増しに種子田への融資額が増える中で、T氏が担保提供の話を具体的に進めようとしたところ、種子田が「私の病院は、東邦医大、東京女子医大、京都大学医学部の応援や支持を受けて成り立っており、その担保価値は牛久の愛和総合病院だけでも500億円以上は十分にあります。しかし、茨城県を始め厚生省(現厚生労働省)や社会保険庁の監視下にあるため、今すぐには担保にすることはできませんので時間を下さい」と言を翻したのである。

また一方で、種子田は「病院は私、種子田益夫のものであり、私が自由にできるのです。借り入れの担保はゴルフ場会社やアイワコーポレーションにしますが、私が借入をすることは病院が借入をし、病院が保証するのと同じと思って下さい。必ず、借りた金は病院で返します」とか「私の息子も『病院は父から預かっているものなので、いつでもお返しします』と言っているので、大丈夫です」などと疑う余地もないような言動を繰り返したことから、結果としてT氏が窓口となり、複数の知人を巻き込んだ格好で種子田への融資が継続されたという。

長男を義絶して病院を資産化する卑劣さ

種子田が融資を依頼した際に「病院を担保に供することはできる」と言明したことから、いざその実行を種子田に促すと、病院の公共性を盾に「担保提供はすぐには難しい」と言い出し、さらに時間が経過すると、「病院は自分のものではないので、これから働いて返します」と開き直った返答に終始していったのである。

ところで、すでに触れたように種子田は平成9年に武蔵野信用金庫から受けた融資を巡る背任事件が表面化して警視庁に逮捕される事態が起きた。東京地裁は平成11年6月28日に無罪判決を言い渡したが、控訴審ではそれを破棄して有罪(懲役1年6月)の逆転判決となった。種子田は上告したが、その最中の平成13年10月5日に東京商銀信用組合を巡る不正融資事件が表面化して東京地検に逮捕される事態が起きた。さらに加えて国民銀行が平成12年に経営破たんしたが、その最大の要因が種子田に対する90億円を上回る不正融資だった事実も明らかになった。

この融資には石川さゆりの個人事務所が立ち上げたカラオケボックス運営会社「カミパレス(ドレミファクラブ)」に対する巨額の融資が発覚し、石川さゆりの事業を応援していたのが種子田だったことから、一躍マスコミでも取り上げられることになった。国民銀行の融資で種子田が逮捕されることはなかったが、同行の不良債権を引き継いだ整理回収機構が種子田と石川に対し損害賠償請求訴訟を起こし、最終的に種子田には52億円、石川については10億円の支払い命令が下された。ちなみに東京商銀信用組合事件で種子田は平成16年2月、懲役3年6月の判決が下され刑に服した。その後、石川さゆりは返済を続けてきた模様だが、それに反して種子田は返済を滞らせていたという。そのことだけでも人間性が分かる。石川さゆりの債務は、元はと言えば種子田が作ったものだ。息子(吉郎)や病院の繁栄を考える前に周囲の関係者にやるべきことをやるという言動が種子田には一切見られなかった。常に拝金的な考えしか持たないから、そういう発想になるのだろうが、実に浅ましい家族としか言いようが無い。こうした種子田を巡る刑事事件が頻発したことで、債権者による貸金の回収がままならない状態が数年間続いた。

種子田が保釈された後の平成15年5月15日、T氏は種子田の来訪を受け、その場で債務の確認を行ったところ、種子田は否も応も無く認めたという。

「種子田が拘留されたり保釈されても、T氏の前に姿を現すことはほとんどなかったが、それに代わって種子田の部下たちや経理の社員が毎月T氏の下を訪ねて、手形の書き換えや債務確認が行われたが、彼らが返済原資に挙げるのはゴルフ場の売却や会員権であって、病院には一切触れなかった。病院の売却については『社長、一度息子(吉郎)と会って下さい』という話が種子田の筆頭の側近で、病院事業の立役者だった田中延和氏から出たが、種子田の当時の代理人だった関根栄郷弁護士に止められて実現しなかった。ただし、息子(吉郎)は田中氏から言われ、その後、T氏に電話を架けてきたが、卑しくも病院の理事長とは思えないほどぞんざいな言葉遣いで『社長さんの関係者は金持ちが多いので、そちらで処理して下さい』と言って、一方的に電話を切ってしまった。もちろん謝罪の言葉はなく、その後も一切電話が架かってくることはなかった父親の債務は関係ないと言わんばかりだが、父益夫が借りた金で病院を買収して経営の維持を図り、吉郎は理事長という総責任者についている。そういう状況で、父親の債務は関係ないとは言わせない」(関係者)

種子田は以前より反社会的勢力との親密関係が指摘され、社会的にはコンプライアンス上で問題ある人物とされてきたのはもちろんだが、息子もまた実父益夫に代わって暴力団関係の債権者に金利を支払っていた事実があるだけに、今後、さまざまな事実が明確になれば実父益夫と同様にコンプライアンス上の問題が浮上すると思われる。

弁護士の関根栄郷は、それまで種子田の委任を受けた弁護団が15人ほどいた中で、種子田の言動や暴力団との深い関係、付き合い方に嫌気して相次いで辞任していったが、唯一親密な関係を続けていた。関根も種子田と二人で銀座のクラブを飲み歩いていたが、債権者と鉢合わせをすると、関根と種子田が飛んできて、『できるだけ早めに返済します』と挨拶する場面が何回もあったという。また、T氏がクラブの社長たちから聞いた話の中で銀座で一番金を落とす客は誰か? という話があり、種子田が突出してNO.1であり、多いときでは1ヶ月で8億円にもなったという。確かに種子田の銀座での金の使いっぷりは有名だったかもしれないが、好みの女性を口説くためだけに店に姿を見せていたそうで、決して褒められる飲み方ではなかったとも言う。「息子(吉郎)も父親同様に行儀が良いとは言えない」とは息子を知る店長やマネジャー、多くのホステスたちの証言である。

だが、種子田が銀座で落とす多額の金の出所が、ゴルフ場の会員権の乱売で得た事実上の裏金であり、また息子(吉郎)が統括している複数の病院からの“上納金”でもあったと言われており、これはゴルフ場や病院にとっては明らかな背任行為で刑事事件である。

これまで見てきたようにT氏による種子田への可能な限りの協力がなされたにもかかわらず、T氏の周囲からは耳を疑うような話が数多く聞こえてきたという。関係者によると、

「T氏が種子田へ融資をした際、金利分を先取りしたのは額面12億円の時の1回だけで、その後は大半が月2%だったのに、種子田は周囲に『金利をいつもまとめて引かれて手取りが殆どない』と語っていたそうだが、そもそも金利先取りの話は種子田が言ったことで、しかも一度だけだった。T氏から言ったことではなかった。そして金利先取りの話は、すべて種子田が返済を先送りするために頼んできたことだった」

また、融資が実行されてから3年4年という時間がたつ中で、返済が殆ど実行されなかったことに業を煮やした債権者が困惑しながら確認を求めたところ、種子田が「(平成10年の)年末までに最低20億円を返済する」と約束しながら、実際には1億円しか持参しなかった。債権者が多少は語気を荒げて「何だ、1億円ですか!?」と言った場面があったという。ところが、これについても、種子田は20億円の返済約束を隠して「1億円を持って行ったのに、『何だ、たった1億円か』と言われた」と周囲に愚痴をこぼしたという。T氏にしてみれば、何年も返済を待たされ、ようやくうち20億円の支払を約束できたというところに、持参したのが1億円だったら、誰だって文句を言うのは当たり前のことである。

さらに領収書についても、T氏は種子田から「石原という名前でお願いします」という依頼があったため、全て「石原」名で領収書を発行していたというが、種子田は「返金しても受領書を出してくれない」などと、とんでもない話を周囲にしていたらしい。これでは、話を聞いた人たちが誤解をするに違いない。T氏の耳に入った話は他にいくつもあったが、いずれも種子田の作り話だった。

ちなみに、長い間逃げ回っていた種子田が平成22年12月9日、ようやく債権者の前に姿を現した時に債権者が最初からのいきさつの全てを話し、「違っているところがあれば、些細なことでも全て言って下さい」と問い質した。すると、種子田は「社長のおっしゃる通りです。済みませんでした」と、ひたすら謝っていた。

しかし、そうした状況下でも種子田はその時「ところで社長、2500万円をお借りできませんか?」と真顔で尋ねたという。

「T氏もこれには本当に呆れ果てたが、種子田は債権者の知人にも声をかけ『手数料を払うから社長を説得して』と依頼していたという話が聞こえて来た時には、さすがにT氏も怒りを露わにしていた」(関係者)

種子田の約束や謝罪の言動がいかに言葉だけに過ぎないかがよく分かる。また、T氏が年末までに具体的な返済計画の提出を種子田に求めると、種子田は「年明けの1月にして下さい」と言って態度を明らかにしないまま帰って行ったが、それ以後は一切連絡が取れなくなり、種子田からの音信も途絶えてしまったという。

種子田が病院を担保にすると言って融資を引き出したにもかかわらず、いざとなると、公共性を盾に担保設定を拒んだり、息子が理事長であって種子田自身は関与していないという主張は、果たして罷り通るものなのだろうか。

関係者によると、「T氏は以前、腓骨神経麻痺症の症状が出て、種子田に請われるまま牛久愛和総合病院に1か月以上入院したことがあった。その時の経験から言えば、『オーナー室』という表札のかかった特別室のような広さと設備を整えた部屋があったが一度も使用された様子が無く、また院長以下全職員が種子田益夫をオーナーと呼び、種子田の客として債権者を最上級でもてなした、ということだった。

種子田が病院経営に乗り出してから、T氏から借りた金でいくつもの病院を買収し、力のある医師会や国会議員に頼んで施設の拡充を図り、医師の資格もない息子の理事長就任を図ってきた事実は病院関係者の誰もが知っていて証言している」