第2章 吉郎は父益夫の詐欺の共犯か 

種子田が逮捕された直後の平成14年1月、他の暴力団関係の債権者がゴルフ場や種子田の東京と宮崎にある自宅を売却したり競売にかける事態が起きた。そのうち宮崎市内の和風邸宅の競売では、種子田のダミーと見られる「汗牛社」が一旦は自己競落した後の平成17年3月に息子(吉郎)が個人名義により売買で取得し、さらに同年12月に医療法人晴緑会(高知総合リハビリテーション病院と宮崎医療センター病院を経営)に転売したという事実は、まさに病院グループ及び病院グループのトップたる息子吉郎が種子田の支配下にあることを明確に示しているのではないか。なお、汗牛社が種子田のダミー会社であることは、東京商銀信用組合が事件直後にこの和風邸宅に競売の申立をし、種子田(汗牛社)が慌てて資金を調達して自己競落した事実からも明確だった。

そのようにみると、種子田が主張して止まない「病院に関与していない」という言葉は絵空事に過ぎず、「病院」という財産を密かに親族名義で蓄え、T氏が手を出せないような構図を構築してきたことに他ならない。そして、法律を悪用して財産を隠匿し、T氏を筆頭とする多くの債権者を泣かせ続けている行為を決して許容してはならない。私的財産の“本丸”である病院を息子吉郎が任せられているのであれば、息子吉郎は当然実父益夫の負の部分も引き継がなければ不当と言わざるを得ない。

「種子田の側近だった田中(延和)や梶岡が辞めるときに、T氏に挨拶に来たが、種子田には本当に悪すぎてついていけない、T氏の前でも何度も涙を流して借金を懇願していたが、それも全てジェスチャーで帰りはいつも『してやったりのにが笑いであった』と言っていた」(関係者)

田中も梶岡も種子田の借金の返済でT氏たちに言い訳ばかりを言わされていたが、種子田は側近ですら庇う気にもなれないほど悪すぎるという。種子田は灰皿や食器一つを割っても、「これは、全部、自分のものだ」と言って怒鳴りつけたが、500億円以上の債務を負っていながら責任を果たさず、息子吉郎の支配下に置くようなやり方は決して許されることではなかった。まるで人を騙すことが生き甲斐になっているのではないかと思われるほど、種子田は牛久愛和総合病院をエサにして債権者たちを騙し、病院という事実上の私的な蓄財を息子吉郎に託してきた。田中は種子田益夫からもらった高級時計を息子吉郎が理事長に就いた後に返したという。また、どれだけ貢献したか分からないほど頑張った田中への退職金は、たったの100万円だったという。

吉郎の理事長就任が可能となった理由

息子吉郎が中核となる牛久愛和総合病院の理事長に就いたのは日本大学(芸術学部)を卒業して間もなくのことで、もちろん当時は医師の資格が無ければおいそれと理事長に就任することはできなかったし、またその後、父益夫が全国7施設の病院を買収していくたびに息子吉郎が理事長に就いていったが、息子吉郎に病院を相次いで買収する財源があった訳でもなかった。そのような父益夫の“ダミー”に過ぎない息子吉郎が理事長としての社会的責任をどこまで自覚して果たしてきたのかは大きな疑問である。

息子吉郎にとって最大の疑惑は前述したとおり、昭和50年代後半から同60年代初めにかけて医師の資格が無ければ理事長には就任できなかった課題をどうやってクリアーできたのか、という点である。つまり息子吉郎が理事長に就いたのは“ウラ口”であり、そのウラ口は多分に違法性の高い特殊なものだったということになる。

種子田の側近だった田中延和が「(吉郎)が大学を卒業したのを機に一ヶ月間アメリカの医療状況を見るためにツアーに参加した」と記しているように、それが息子吉郎にとっては病院経営の始まりだった。医師の資格はないから、当然知識や情報も積み上がらず、経験とノウハウも無いまま「大阪、高知、九州、牛久等5ヶ所の病院をコントロールすべく東京本部を創り」、田中が専務、吉郎が常務に就いて、全て種子田益夫の指示に基づいて具体的な方針を実行し運営に当たっていたという。種子田が全国の病院を買収し、グループを形成していく中で東京本部は次第に拡充していくが、吉郎はそこにアグラをかいていたに過ぎず、全ては父益夫の指示によって側近の田中が吉郎のためにお膳立てをしたのが実態だった。そして、種子田が刑事事件で有罪となり刑務所に服役すると、これも種子田の指示に基づいて病院グループは積極的に種子田のアイワグループとは一線を画していったという。

しかし、病院の買収や施設の拡充が種子田の巨額債務によって進められ、今日を迎えていることは明白だから、その事実を無視して病院の経営だけを切り離した状況を維持しようとすること自体に大きな問題がある。

なお、田中は一歩も二歩も下がったような口ぶりで語っているが、実際には田中がいなければ、アイワグループも病院も現在の形にはならなかった。

種子田益夫の息子吉郎は各病院の理事長として、例えば「患者様の意思を尊重し生命の尊厳とプライバシーを守り……」(宮崎医療センター病院)とスローガンを謳って、一人ひとりの患者に寄り添った医療を目指していると強調するが、当の吉郎自身がT氏に対してはまるで逆の対応をしているのだ。そのように明らかな二面性を持った生き方を大学卒業から今日まで約30年以上も続けてきた吉郎並びに表向き吉郎が率いてきた病院グループを、仮に一人の患者としてどこまで信用、信頼して命を預けることができるものだろうか? 極めて大きな疑問である。

「父親が作った巨額の負債は、病院を買収するための財源に充てられたもので、債権者からすると貸金が病院に化けたと言わざるを得ない。吉郎が父益夫の巨額の債務を『私には関係ない』と言い続けること自体あまりに身勝手すぎ、父益夫の債権者を始めとする関係者と真摯に向き合う責任を負うのは当然のことではないか」と関係者が言うように、いつまでも吉郎の姿勢が通るはずは無く、また周囲もそれを許して見過ごすことなどあってはならない。

T氏にとって最も許し難かったのは、「愛和グループ」の病院を事実上の担保にしてT氏やT氏の知人から巨額の融資を受けながら、種子田が取った行動は息子の吉郎を病院の理事長に据えたまま、種子田と病院の関係を本格的に疎遠にして、原告である債権者や債権者の多くの友人や知人から病院を守る態勢を構築したことだった。

田中延和も「子供可愛さから、判断を誤ったことがいろいろあり、下の者は傷ついたことはありました。法的には、聞くところによると、親子の縁を切って、病院には手を出させないようにしたらしいと言われていますが、病院の今日あるのは種子田益夫の力によって、また多数の債権者の涙によって築かれたことはぬぐいようもない事実です。残念ながら今の吉郎は分かっているのか? 疑わしいと思っています」と書いているが、愛和病院グループを育て上げた真の立役者であった田中を、しかし、種子田益夫は途中で“用済み”になったとして放り出した。その非情さを吉郎もしっかり受け継いだのかもしれないが、吉郎がたどってきた経緯からみても、責任の重さを自覚させなければならない。

吉郎は、種子田が融資を依頼した際に「病院を担保に供することはできる」と言明したことから、いざその実行を種子田に促すと、病院の公共性を盾に「担保提供はすぐには難しい」と言い出し、さらに時間が経過すると、「病院は自分のものではないので、これから働いて返します」と開き直った返答に終始していった卑劣さを責任者として受け止めやるべきことを果たさなければならないのである。

「種子田がオーナー」を初代院長も証言

種子田がオーナーとして病院を支配し続けてきた事実は牛久愛和総合病院の初代院長だった故村井良介を始め、日本医師会の参与だった檜田仁、東邦大学医学部教授だった永田勝太郎などが種子田の依頼に基づいて病院の拡充や医師の派遣等で尽力した事実を「陳述書」にもまとめていることでも明かである。また愛和総合病院が開設した当時、医師の資格が無ければ理事長には就けなかったにもかかわらず、何の資格もない吉郎(日本大学芸術学部卒)が愛和総合病院ほか傘下に収めた全国の病院でも理事長職に就いた背景には「地元茨城県出身で自民党の厚労族の重鎮たる丹羽雄哉衆院議員が種子田氏から数千万円の献金を受けて厚生省に強く働きかけた賜物だった、という指摘があった」(関係者)という。「種子田が病院のオーナーである事実は病院職員の隅々まで知れ渡っていた事実で、決して揺らぐことはない」(関係者)

「私が病院のオーナーであることに間違いはないので、いざとなったら病院を売ってでも必ず返します」と種子田は言い続けたが、卑劣にも掌を返すような豹変ぶりでその言葉を翻したことから返済は滞るばかりだった。

T氏にとって、種子田に対する債権が発生してから訴訟を起こすまでにかなり時間が空いているが、それは前に触れたとおり、ただでさえ返済の話になると部下を債権者に差し向けて自分は逃げ回っていたのに加えて、種子田は分かっているだけでも3つの金融機関を破綻に追い込むような不正融資を受けて刑事事件となり、数年間は事実上本人と接触が出来ない状況にあったからだった。また、種子田の背後に控える反社会的勢力の存在が大きく影響したと言っても過言ではない。それについては関係者が次のように語る。

「種子田のボディガード兼運転手だった男に種子田が収監される前に『預かっておいてくれ』と言って頼んだ段ボール箱10数箱を、密かにT氏の会社に運んできた。男にしてみると、種子田のT氏に対する対応が余りに悪過ぎて、平気で人を騙し、種子田本人が実業と嘯いたゴルフ場経営は破綻寸前で担保価値など無いのに、価値があるかのごとく振る舞い金主を騙す行為を繰り返してきた。しかも、それでいて金主から集めた金を病院の買収や設備の拡充で積極的に集中的に使いながら、これは私的財産として誰にも渡さないよう工作する、などといったやり方が腹に据えかねたということだった。

段ボール箱がT氏の手に渡ったということで、種子田の後ろ盾になっていた日本有数の暴力団山口組芳菱会のNO.2がそれを返せと言ってT氏に対し『タマを取るぞ!』という脅しの電話を何回もかけてきた。T氏にそんな脅しが直接入ったことが数回はあった模様だが、その後は芳菱会の会長(故瀧澤孝)自身が直接面会してくるようになり、T氏は外出で会社を不在にすることが多かったことから部長が対応したのだが、部長によると瀧澤は『ワシは持病があって命は長くないので、命があるうちは種子田から頼まれればどうしても関わらざるを得ない』と言ったという。瀧澤は言葉は丁寧だが、やはりトップとしての迫力があったようだ。次いで瀧澤は『種子田だって少しは返しているのだろう?』と尋ねたそうだが、部長が『最初の一部だけで、その後は一切ありません』と答えると、しばらく黙った後に『種子田のやっていることは、正直ワシも許せんと思ったことが何回もある。息子の吉郎は父親が病院を利用して社長を騙していることを良く知っていて知らん振りを通している。種子田自身がゴルフ場を担保にしながら、病院も事実上の担保になっていて、いつでも必要であればお返しすると息子の吉郎が明言しているなどと言って時間を引き延ばしてきた。吉郎もそれに同調していたので、父親以上に悪質だ』と言ったので、部長は意外に思ったそうだ。そして、瀧澤は『ワシの用件を社長に伝えてくれ。ワシの死後は種子田に全額請求していいから』と言って帰って行った。その後も瀧澤は事前に連絡もなく会社に現れ、そのたびに部長が対応していた。社長の意を受けた部長もまた余計な話はせず、黙って瀧澤の話を聞いた後に『社長に伝えます』という返事をして終わるという面談が何回もあった。そして『様子を見ます』という社長の言葉を部長が伝えると、それが面談の最後となった。瀧澤は部長に草津の別荘の権利証(当時約1300万円の評価)を渡した。部長が『これは受け取れません』と返したが、瀧澤は『受け取ってくれ。これは気持ちだから』と言って権利証を置いたまま帰った。以後、瀧澤が来ることはなかったそうだ」

T氏に対して、病院の一部でも売却して返済原資を作るという話をすれば、問題は支障も無く解決するという簡単なことが種子田にも息子の吉郎の発想には全く無いから、反社会的勢力を使ってまで、債権者を屈服させようとしたに違いない。

種子田益夫、そして息子の吉郎もまた社会的道義的責任を取るという、人としての基本的な資質が明らかに欠落している。

複数の医療関係者によると、「茨城県内でも有数の病院である牛久愛和総合病院は公共的に重要な責務を負っている。現在の理事長にかかる不祥事は明らかに理事長として不適格であるので、理事長本人で解決できないと言うならば、公正な第三者委員会を設置して検証する。その上で理事長の責任を問い、新たに選任した理事長の下で債権債務の問題を解決するのが最良の方法ではないか」という。極めて筋の通った話で、そうであれば、T氏ほか債権者も納得するのではないか。

訴訟を提起するも種子田は死亡

T氏は昨令和元年7月に種子田に対して債権の一部5億円の返還を求める訴訟を起こした。関係者によると、「この5億円は貸金のほんの一部に過ぎず、種子田氏への最初の融資が発生した平成6年以降、貸金が返済されたのは2回程度、それもT氏に信用を植え付けることを目的としたもので、その後の融資では元金はおろか金利の支払もされずに累積していった結果として、債権の総額が平成15年5月15日の時点で368億円に達していた」と言うから、想像を絶するような金額である。それ故、関係者も「今年(令和元年)現在で債権総額の全額を請求することは可能だが、元金の一部のみを請求することにした」と言う。また別の関係者も言う。

「T氏は知人を金銭的に巻き込んだことで、過去約25年という長い間、重大かつ深刻な事態が続いて来たが、今回の訴訟で何としてでも全面的な解決を導き出したい、とT氏やその関係者全員が考えている」

ところが、種子田が令和元年10月13日に亡くなったことで、裁判は一度も開かれぬままになった。種子田は昭和12年1月12日に宮崎県小林市に生まれ、享年82歳になり死因は病死ということだが、2~3年ほど前には80歳を超えて臓器移植のために渡米まで予定していたようだから、種子田本人にはまだ死ぬ覚悟などなかったのだろう。

「種子田は2年前の夏に臓器移植の手術を受けると言ってアメリカに渡航する準備をしていた。ところが、突然それが中止になって、本人はえらく気落ちしていたが、予定されていたドナーに問題が起きたのではないかという話だった」と関係者は言う。その後も日本国内に留まり、恐らくは愛和病院グループのいずれかに入院し治療を受けていたものとみられる。関係者によると、種子田の死亡地は四国地方とのことだが、高知にはグループ内の高知総合リハビリテーション病院がある。この頃でも「種子田は現金で20億円以上を保有している」と種子田の秘書が知人に漏らしていたが、債務の返済に回す気など全くなかったという。

しかし、その死は誰にも知らされていなかったようで、いくつもの金融機関を舞台にして不正融資事件を起こし、さらにその事件では演歌歌手の石川さゆりまで巻き込んでいただけに芸能マスコミが放っておくはずはなかったが、訃報は一切流れなかった。本来ならば、種子田の遺産を相続している者が裁判を引き継ぐはずだったが、家族や親族の誰もが相続を放棄する手続きを早々に取り、種子田益夫との関係を終わりにしてしまおうとしたためにT氏にとっては裁判が宙に浮いた格好となったが、それで終わりというわけでは決してなかった。これは、種子田益夫が数人の債権者から莫大な金を騙し取っていくつもの病院を買収して、病院を担保にするのが前提だった約束を破った揚げ句、益夫の一族もまたこぞって病院の権益を享受しながら負の債務については頬かむりしているもので、その有様は「詐欺の一族」と未来永劫にわたって言われても当然の振る舞いで、葬儀がどのように行われたのかさえ誰も知らないというやり方は明らかに非難の対象となってしかるべきだった。

そこまでして種子田の死を世間に隠し続けようとする家族や身内には理由があったかもしれないが、しかし、それはあまりにも自分たち一族が都合よく組み立てた常識はずれで悪党極まりないものだった。このようなやり方を地元市民や所管の自治体はじめ医師会、厚生労働省が絶対に許してはいけない。

本サイトでは今後も種子田関連の情報を継続して発信するが、少なくとも種子田に関してこれだけ関心が高まっている中で、種子田吉郎や病院にも直接取材の動きが起きるものと思われる。

読者を始めとする世間一般の常識が種子田吉郎ほか家族には通じず、また世間の声を聞こうともしない吉郎にはコンプライアンスの対応はもちろんのことだが、全て公の情報として追及の手を緩めない姿勢で今後も読者の声を反映させながら記事化を進めていきたいと考える。