鈴木義彦ほか当事者たちの「偽証」「誤判」は何故罪にならないのか②

前号に続き、鈴木の虚偽証言の第2弾を公開する。鈴木と西の株取引が目立ったのか、志村化工株で西が鈴木の言われるままに同社株を大量に売買したことが証券取引等監視委員会(SEC)に注目され東京地検特捜部へ告発された。しかし、鈴木は西に罪を負わせて一人逃げ延びた。そして、西の有罪が確定すると、鈴木は西を切り捨てた。和解協議では、合意書に基づいた株取引の実行は無かったと頑なに否定し、わずかに宝林株の取得資金をA氏が出したことと同社株合意書に基づいた取引だったことだけは認めたが、鈴木を始めとする当事者たちのあくどさに満ちた偽証は際限がなかった。

志村化工株事件

西は平成14年2月27日に志村化工株の相場操縦容疑で東京地検特捜部に逮捕された。その際、鈴木の側近であった武内一美(ジャパンクリサイスファンド)も逮捕され、鈴木の関係先が家宅捜索されていた。取り調べで、検事が執拗に鈴木の関与を追及しても、西が頑なに否認し続けたからこそ、鈴木は首の皮一枚で助かったようなものだった。

「西会長が仮に実刑となっても、出所後は西会長の言うことは何でも聞くので、私のことは一切秘密にして下さい」と鈴木は逮捕直前の西に土下座をして必死に頼んだ。鈴木は、自分の身の安全ばかりを考えていたのだった。

西の拘留中や保釈後はともかく、西が平成15年7月30日に懲役2年、執行猶予3年の判決を言い渡された後、鈴木の西に対する対応が冷淡になり、相互に連絡を取り合うことさえ避け続けた。

同年の9月、鈴木から西に電話が入り「一度ゆっくり話がしたい」と言うので、西と鈴木は西麻布の喫茶店で会った。

「その時、彼は私のことを『西さん』と呼ぶようになっていた。今まで私のことを『西会長』としか呼ばなかった鈴木が、裁判が終わった直後に態度を変えたことに対して私は非常に驚いたのは『西さんへの毎月の生活費の支払いをそろそろ止めたい』と言われたことだった。私は、その時鈴木にたった一つの事だけを言った。『執行猶予が切れた暁には、二人で交わした(利益分配の)契約を実行していただきたい』。私はその時約300億円以上の利益が積み上がっていることを伝えられており、(略)驚くことに鈴木が私に言った言葉は『A氏は俺には関係ないだろう。西さんが取り分をどうしようと勝手だ』ということだった」(西義輝が残したレポートより) これは、合意書(平成11年7月8日付)を破棄して鈴木と西で利益を山分けするという新たな密約をしたので、このような言い方になったようである。

15億円の借用書作成(平成14年6月27日付)

西が志村化工株の事件で逮捕起訴され、保釈された直後の平成14年6月、A氏が貸金と株の話を西にしたところ、「株取引の利益がこれから大きくなるので(鈴木の債務を)圧縮して欲しい」と西がA氏に話した。鈴木への貸付は金利年15%で計算すれば40億円超であるが、遅延損害金年30%で計算すれば60億円を超えていた。A氏は了解して鈴木への貸付金を25億円に減額した。そして平成14年6月27日、鈴木と西がA氏の会社を訪ねた際にA氏が確認を進めると、鈴木が唐突に「A氏への返済で西さんに10億円を渡しました」と言い出した。驚いたA氏が同席していた西に確かめたところ、西が渋々ながら授受を認めたために、鈴木は25億円から10億円を差し引いた15億円の借用書を書き、西も10億円の借用書を書いた。A氏は鈴木に対し「私に対する返済金であれば、なぜ直接来て話をしなったのか。もしそれができない時でも、なぜ西に私への返済金の一部として10億円を渡したということを、最低電話ででも言わなかったのか」と言うと、鈴木は「済みませんでした」と言って謝罪し俯いたまましばらく顔を上げなかった。

ところが鈴木は裁判では「西に10億円を渡したとは言っていない」と言い、「その日にA氏と西には会っていない」とも言って、借用書の作成はA氏に債務の二重払いを強要され、手切れ金を払う積りでA氏の言われるままに書いた、というとんでもない虚偽の証言を繰り返した。借用書には確定日付が取ってあり、また借用書の但し書きを見れば、鈴木の証言が虚偽であることはすぐに分かる。

鈴木義彦の虚言

西が鈴木から受け取った10億円はA氏への返済金などではなく、「合意書」の破棄を西に執拗に迫り、その結果、複数回にわたって西と鈴木の間で報酬名目の金銭の授受が発生したものであった。実際は紀井が西の運転手の花館聰に複数回で渡している。平成18年10月16日の和解協議の場で、西が鈴木に「これくらいは認めろ」と詰め寄り、鈴木も「忘れた」などと言い訳していたが、最後には言い訳の仕様も無く渋々認めた。A氏から受けた買い支え資金で莫大な利益を上げていたにもかかわらず、それをA氏には隠し続け独り占めした、という鈴木の裏切りが決定的になった場面だった。

平成14年6月の時点で鈴木がA氏に負っている債務総額は、年利15%で計算すると40億円超に、また遅延損害金年30%で計算すると60億円超になっていた。ただし、鈴木が平成9年10月15日付で3億円を借り入れた際の借用書には「年利36%、遅延損害金年40%」とあり、遅延損害金の40%で計算すると70億円超にものぼっていた。6月20日頃、A氏が西に鈴木の債務返済について尋ねた際、西が「今後の株取引の利益が大きくなるので」という理由で鈴木の債務を圧縮して欲しいと懇願したことを受け、A氏は25億円にまで圧縮することを了解した経緯がある。

和解協議並びに和解書(平成18年10月16日付)

品田裁判長は三者協議の場を、A氏と西による鈴木に対する強迫の現場であったと認定したが、そのような事実は全くない。鈴木には懐に入れた金を一円も払いたくないという本音があり、そのためにA氏を裏切り、西を懐柔して利用し、最後には切り捨てて自殺に追い込んだ。それが真実である。和解協議の場でA氏と西が鈴木に突き付けたのは株取引で得た470億円の利益を鈴木が独り占めして海外に隠匿している事実の一端であり、それに対して鈴木がギリギリで認めた範囲で和解書が作成されたものである。品田裁判長は飽くまで合意書と和解書の無効に拘ったあまり、それを否定する証言や証拠をすべて退けてしまった。

当日の協議は最初から西と鈴木がお互いに喧嘩ごしで罵り合い、協議どころではなかった。だが、西が紀井に会い、鈴木の指示で宝林以外の銘柄でもそれぞれ10億円単位の利益を出した事実について西に説明したとの話を聞いたA氏は、鈴木に真実を語って欲しいと言い、その真実に沿って然るべき対応をするべきだと主張した。

しかしそれでも、鈴木は頑として「合意書」に基づいた株取引を行った事実を認めなかった。「合意書」には「今後の全ての株取引」と明記されているから、鈴木が単独で株投資を行ったとしても、全て「合意書」に制約されることになり、鈴木にはA氏や西に説明する義務があった。

しかし、鈴木は頑なに否定し、「書面どころか口頭での話も一度もないのに、『合意書』に基づいた株取引などあるはずがない」と鈴木は強調したが、西が「利益が出ている事実を証言している者がいる」と詰め寄ると、鈴木は激高して「それは誰だ。そんな人間がいるはずがない」と言って強く抵抗した。鈴木の抵抗が強かったためか、A氏と西が証言者は紀井であることを明かすと、鈴木は驚いて「そんな筈はない」と言いながら「その録音テープを聞かせろ」と言い、その場で紀井に電話を入れた。すると紀井も西に会い株取引で利益が出た事実を語ったことだけを認めた。

その結果、鈴木はようやく宝林株取得の資金はA氏が出したことを認め、さらに宝林株の取引が「合意書」に基づいたものであったことも認めたが、「ただ、その清算は終わっているでしょう」と言ったのみで、いつ、いくらをどのように清算したのか、具体的な話はしなかった。そして、鈴木が認めたのはそこまでだった。

鈴木が「社長には、これまで大変お世話になったので、西の話は受け入れられないが、この問題を解決するために50億円を払います」と言った。つまり、A氏と西にそれぞれ25億円ずつを払うと鈴木は言ったのである。ところが、利益は470億円にも上るという事実を知る西が反発して「そんなもんじゃないだろう!?」と、再び喧嘩ごしになった。罵り合いが再燃しそうになり、A氏がとりなした。「鈴木さんが言うのだから、先ずはそれでいいじゃないか」と説得された西は、予め用意しておいた「和解書」を鈴木の前に提示した。書面の内容を鈴木は何度も読み返し、「文言で気になるところがあれば修正しますよ」と言うA氏に「いえ、問題ありません」と言って真っ先に自筆で空欄となっていた金額欄に50億円と書き、併せて住所と氏名を書き記し指印した。そして西も最後に署名指印したが、「あくまでも利益が60億円を前提にしたものだからな」と釘を刺した。すると、鈴木がA氏に対し「社長には大変お世話になったので、2年以内にあと20億円を払います」と申し出た。西がすかさず「それも、この『和解書』に書け」と迫り、鈴木が「いや、オマエの言い方が気に入らないので書かない」と反発し、西と鈴木のいがみ合いは収まらなかったが、「社長、信用してください。私の男気を見てください」と言う鈴木の言葉をA氏は信用することにして協議は終了した。

鈴木はA氏の会社を出た直後に紀井に電話を入れ、「100億以内で収まり助かった。しかし、香港の口座はバレていないだろうか」と話した。鈴木の言う「香港の口座」とは、利益を香港にあるダミー会社に一旦は送金してプールしていたから、その実態が分かってしまうと、鈴木の嘘がたちまち発覚してしまうということを指していた。

和解協議並びに和解書作成後

10月16日の協議の後、鈴木は頻繁にA氏に電話を架け、「西の買い支え損は約70億と言っていたが、正確にはいくらですか?」と尋ね、A氏が西と紀井に確認して58億数千万円と応えると、鈴木は「それを全体の利益より引いて3等分しないといけませんね」と、そこまで「合意書」の有効性を追認した。また1週間後の10月23日に鈴木が三たびA氏の事務所を訪れ「和解書」で約束したA氏と西への支払約束について、より具体的な説明をした。

「(50億円については)10月から毎月10億円ずつを来年2月までに、20億円については2年以内に…、出来るだけ早く」と鈴木は言いつつ、海外から多額の現金を日本に持ち込むには様々なハードルがあるので、支払いは分割になり時間もかかるが、何とか努力して遅くとも12月には実行すると言った。ところが、和解書の支払約束を追認し具体的な支払方法まで語っていた鈴木の態度が、青田と平林が代理人に就いてからは一変したのである。

鈴木がA氏の会社を訪ねてから間もなくして、A氏宛に鈴木からの手紙が郵送され、「和解書」の件について「どうにも納得ができない」「社長には大変な恩義があるので、それには報いたいが、どうしても西の言動が許せない」などという文言を書き連ねた上で、支払約束についてはもう少し考えさせてほしいというものだった。そして、そのために鈴木自身はA氏との直接の交渉に応じず、代理人として弁護士の平林英昭と友人の青田光市の二人を立てるので、代理人と交渉をして欲しい、という極めて無責任なものだった。

A氏は、鈴木に「直接話をするべき」と呼びかける返書を送ったが、12月に入って改めて鈴木から手紙が送られてきて、「代理人と話をして欲しい」ということを繰り返し、加えて西や紀井が国税当局への告発や鈴木の関係者へ話をしたことで、A氏、西、鈴木による三者協議はもはや意味はない、などと責任を転嫁するような理屈を述べていた。(以下次号)