第7章 壮絶な死

突然、西の行方が分からなくなった。2月5日、A氏は夜の9時過ぎに西と会うことになっていた。ところが西は姿を見せなかった。約束の時間に遅れることが今までには無かったので、A氏は訝しく思い、西の妻に電話した。家族に不安の様子は感じられなかったが、A氏は胸騒ぎを覚えていた。

ある事件が原因で、鈴木が「巨額の利益金を隠匿しているのではないか」という疑惑が表面化した。その事件とは、平成18年10月初旬に香港で起きた、西が何者かに殺されかけた事件だった。

それ以降、西と鈴木の深刻な対立が明確になった。なかなか解決の目処も見えずに時間が過ぎる中で、業を煮やした西は「問題解決のためには手段を選ばない」などと何かを決意しているかのような言動を頻繁に口走るようになるが、A氏がその度に宥め嗜める、ということが繰り返されていた。それが、A氏が胸騒ぎを覚えた理由だった。

「鈴木がこのまま話し合いに応じなければ、俺にも覚悟はあります」

と西が言ったことがあった。西は「自分が死をもって諌めれば、鈴木は自分が恩ある人を何から何まで裏切っていることに気付いてくれる」と考えていたのであろう。A氏は「早まったことをするんじゃない」と嗜めることが一度や二度ではなかったという。

但し、西は香港で殺されかけた事件の後、鈴木と青田の影に怯えていたところがあったようで、事実、「何者かが西を尾行するから気をつけて」と紀井から連絡を受けたことがあったという。

西とA氏とは1980年代から付き合いが始まり、西はA氏を兄のように慕い尊敬もしていた。仕事面だけでなく、全てのことで信頼を寄せていた。「鈴木の言っていることは支離滅裂で、めちゃくちゃですよ」と西はよく言っていたが、それにも一理あって、確かに鈴木の言動には辻褄の合わないことが多すぎた。

そうした日常があっただけに、約束の面談に現れない西の身を案じたA氏が西の妻宛に電話したのだった。

西の妻が警察に捜索願を出しながら、行方を探る手がかりも見つからない状況が数日続く中、最悪の事態が展開し始めた。別の知人から家族に連絡があり、「妙な手紙が届いた。『遺書』としか考えられない」と言う。西の長男がその知人を訪ね、手紙を読むと、確かにその手紙の内容は『遺書』だったという。長男は手紙を見て驚愕した。

日頃から「自分の身に何かあれば、A氏に相談しろ」と父親から言われていた長男は、ともかく父親の所在を探す事が先決で、心当たりを当たっていくしか方策は見当たらなかった。

西の所在が掴めないまま具体的な結論など出しようが無かったが、西が死を選んだ可能性は極めて高く、それだけに生存を信じて一刻も早く見つけ出し、間に合うならば早まったことをせず思い留まるように説得しなければならないと、誰もが考えていた。

 西の妻によると、西は1年以上も前から「鈴木を何とかしなきゃいけない」と漏らしていたという。2月5日にA氏から電話を受けたときには、「いくら遅くなっても必ず帰ってくる人ですから、大丈夫でしょう」と言ったが、実際には翌朝になっても西は帰宅しなかった。妻は西の知人に頼み、密かに秋田の大仙市にある別邸に向かわせ、西の所在、安否を確かめてもらったという。だがその時は別邸に西の姿を見つけることは出来なかった。以上の話は西や西の家族と付き合いの深い関係者たちの話である。

○浴槽に沈む遺体を妻が発見

 西は、東京オークションハウスという会社を経営していた。1990年代の半ば、高額な宝飾品、絵画を始めとする美術品などをオークションに出品するイベントを、東京を中心に開催していた。世界有数のオークション業者で権威あるサザビーズやクリスティーズに自らをなぞらえるほど一世を風靡した時期もあり、マスコミも持て囃した。1990年代はバブル景気が潰えた直後のであったこともあり、日本国内に溢れかえった高額の美術品や宝石、貴金属が数多く出品され、盛況を極めたという。

 大仙市は西の妻の故郷と言っても、妻が別邸を訪れる機会はほとんど無かったが、西が宴席を催すときは同行するようになった。

西の失踪から数日して、妻は別邸を訪れることにした。妻は邸内をくまなく捜したが、西がいる気配は感じられなかった。憔悴と困惑が入り乱れる中、もしやと思い、離れに向かった。離れのドアを開け、脱衣場を抜けて風呂場に向かう。そして……、見つけた。

浴槽いっぱいに張られた水の中に西は沈んでいた。顔の輪郭が浴槽に張られた水のせいでぼやけてはいたが、それが夫であることは妻にはすぐに分かった。妻は呆然とその光景を見つめ続け、危うく失神しかけた。そして、どれほどの時間が過ぎたのか、記憶が曖昧のままバッグから携帯電話を取り出し、震える指で110番を押した。

電話を受けた大仙署から警察官や鑑識が大勢、邸に駆けつけた。浴槽の水を抜いて現れた、両足の甲に突き刺さった五寸釘めいたものに警察官たちは驚愕した。

自殺、事故、そして事件……。警察官たちには咄嗟の判断はつかなかったが、何より自殺しようとする思いがいかに強くても、両足の甲に五寸釘のようなものを打ちつけ、浴槽の床まで貫いて身体を固定する、などという発想が、どういう思いから生じるものなのか? 警察官たちが事件性を強く感じ取ったのは当然のことであった。遺体の現場検証が続く中、警察官が妻に発見時の状況や経緯などを聞こうとしたが、妻はとても冷静に対応できる心境には無かった。

……それから数日して、東京都内を中心に、大仙署の複数の捜査員が警視庁の協力を得ながら西の知人、仕事上で関係する当事者たちに事情を聞いて回る日々が始まった。

西が大量の睡眠薬を飲んでいたこと、遺体が発見されたとき、皮膚がひどくふやけてむくんでもいたことから、死後、妻に発見されるまでの長い時間、浴槽の水の中に沈んでいたことなど、遺体の状況から判断できる材料は少なかった模様だが、それでも捜査員たちは、自殺では無く「殺し」を念頭に置いて関係者たちからの聞き取りを続けた模様だ。

中には、妻に頼まれて大仙市を訪れていた知人が、直前の数日間に何度も角館駅の防犯カメラに映っていたことから、連日のように事情を聴かれるという事態も起きてはいたが、事件とする確証は得られなかったと思われる。

この様に、警察の捜査が行われている状況の中で、関係者が会社の備品や私物の整理をしていた際、机の上に敷かれたマットの下に、西が書き遺した数十枚の書面のコピーが隠れるように置かれているのを発見した。先に触れた知人宛の「遺書」と同様、複数の人に宛てた「遺書」となる手紙が郵送されていたことが判明したことから、西の死は「自殺」という判断に傾いた。現状では、秋田県警も周辺関係者たちの多くも、西の死は自殺と判断しているというが、そうであれば、五寸釘めいたものを両足の甲に打ちつけるという行為は何を表すのか? 

騙され、自暴自棄となった挙げ句の死、いわゆる“負け組”の末路と思われたくないという西の最後の意地であったのか? 西は何を言いたかったのか? 少なくとも西のA氏に対するお詫びと感謝の気持、そして鈴木と青田への強烈な怨念が強く感じ取れる。

○伊藤忠商事社長就任へ協力

西義輝。彼も若くして兜町を賑わした経歴を持つ。平成7年に東京協和信用組合と安全信用組合をめぐる特別背任事件が表面化して逮捕された、東京協和信用組合のオーナーだった高橋治則(故人)が西のスポンサーではないかとの噂が流れていた。

西は伊藤忠商事本社常務取締役であり伊藤忠アメリカ(現伊藤忠アメリカインターナショナル)の社長だった室伏稔(故人)と親交があった。おそらく、前述した東京協和信用組合事件絡みで室伏に取り入り、付き合いが始まったと推測される。

西の話によると、A氏もこの頃に西の紹介で室伏と知り合ったという。室伏は当時伊藤忠商事の常務であったが、社長就任へ大変な意欲を持っていた。それを知っていた西はA氏に協力を依頼し、多額の資金のバックアップを続けていたという。A氏は西とともに室伏からアメリカに招待を受けたことが何度かあり、大変な歓待を受けたという。室伏は、その後、伊藤忠商事の専務を始めとする先輩役員十数人をゴボウ抜きにし、晴れて代表取締役の座を手中にした。

日本中の大手企業の社長や著名人が集った社長就任パーティが終わった日の夕刻、室伏が予約した新宿ヒルトンホテルで夕食会が開かれ、そこに招かれたA氏と西は室伏と三人で食事をした。その席で室伏は、

「A氏には、今まで応援して頂いたお礼に、今後、私に出来ることがあれば、協力させて頂きます。何かあれば遠慮せずに言って下さい。月1回は三人で食事会をしましょう」

とまで言ったという。また,西が伊藤忠商事に持ち込む不動産等の案件は、西が室伏との関係を匂わせる言動を露にすることで、担当部署の責任者は、ほとんどの案件を優遇していたという。

室伏は、A氏からそれまで協力してもらったことの見返りとして、何らかの依頼が来るのではないかと、内心で気にしていたという。しかし、A氏は後にも先にも室伏に対して何の依頼事もしなかった。室伏はA氏の男気と器の大きさにとても感服していたという。

西は学生時代を海外で過ごし、その時に培った英語は堪能だったが、それ以上に如才の無い笑顔と柔和な雰囲気が、魅力的に映っていたようであった。他にもNECの最高顧問として、アメリカに指紋認証システムを一手に導入させた一柳博(故人)は歴代の大統領との親交が篤かったことから、FBIやCIA、インターポールにビジネス人脈を広げていた人物であったが、10年以上前よりA氏と知り合い、A氏の人格に引かれ付き合いが続いた。A氏にとっても貴重な存在だった。

翻って、親和銀行事件では、拘留中も保釈された後も西は鈴木を叱咤し、励まし続けた。鈴木は相変わらず三田の愛人宅に身を寄せ、朝からアルコールに依存し、自暴自棄になっていたという。そこで西は日参して鈴木に、「株で勝負して再起を図るため、A氏に協力をお願いしてみよう」と言ったが、鈴木は「私が約30億円、西会長は100億以上の借金を未だに返せていないのに、無理ですよ」と言った。しかし西は「俺が何とか頼んでみるから、一緒に行こう」と鈴木と共にA氏の会社を訪問して、株投資プロジェクトの提案をすることになった。

その内容は、A氏が資金面を担当し、鈴木が株取引を実行し、西が株価の買い支えや情報の流布等をするという大まかな役割分担で、利益は経費を差し引いた残金額を3等分するというシンプルなものだったが、世間傍から言えば、金主が全てのリスクを負うので、純利益の半分以上を取り、残りを関係者で分けるという。

A氏は、今までの貸付金が返済されていない状況を考え躊躇した。しかし、鈴木からは特に今までに無い真剣な説明を受け、「二人が再起してくれれば」と考え、西と鈴木の提案を受け入れた。そして三者で「合意書」を作成した。当時のことを知る関係者によると、A氏は合意書を作成した時の様子から、鈴木が後日「この合意書は無効だ」と言い出すことなど夢にも思っていなかった。

鈴木は、当時は刑事被告人の身に加え、多方面からの借金でどうする事も出来ない状況にあった。A氏に断られたら、生きていく術を見出す事が出来ないほどに追い込まれていた。そんな時、何十億という金を担保無しで全て肩代わりしてくれた人を騙して逃げ隠れするようなことは人間として決して許されることではないと関係者全員が語っている。

「鈴木は自己破産か自殺の道しか残されていなかった」とまで証言する向きも多かった。

A氏が西や鈴木の頼み事を一度として断ったこことが無かったことを、鈴木はどのように受け止めていたのか。借財の返済が全く出来ていなかった時期も、A氏は催促をすることも無く、非難めいたことも言わず鈴木に接していたという。

○ 遺 言 

 西は鈴木との株投資プロジェクト以外でもA氏に100億円以上という巨額の借財があった。鈴木と仕掛けた仕手戦で利益を上げることで返済しなければならないと考え、命を賭けていたことが窺える。しかし浅はかにも、一番の恩人であったA氏を裏切ってまでも鈴木の誘惑に乗り、自分の利益配当を増やそうと考えた理由は、A氏への返済金に充当するつもりであったのだろうか。

ところが、肝心の鈴木に裏切られ、自分がA氏を裏切ってしまった結果、余計に迷惑を掛け、苦しめることになってしまったのだ。そして、良心の呵責に耐えかねて自裁に及んだ、という内容の遺書であった。

西は、自殺するときには鈴木と青田を道連れにする覚悟であったという。それを察知したA氏が「馬鹿な真似をするな」と叱り、断念させた経緯が以前に何回かあったという。

悶々とした日々を過ごしていた西であったが、秋田の邸宅に一人で籠り、A氏宛にお詫びと感謝を込めた遺書、鈴木に怨念と忠告を込めた便箋18枚にも及ぶ遺書、青田への怨念と警告の遺書、鈴木の実父への遺書、そして家族への遺書を書き上げて投函(消印は平成22年2月9日)した後、ついに邸宅の浴室で自殺を遂げた。

現場の立会いをした地元警察の警察官が「こんな自殺現場は今まで見たことがない」と証言したほどの壮絶な姿での自殺であったという。A氏の動揺も生半可なものではなかったであろう。

数え切れないほどの嘘をつかれ、さまざまな迷惑をかけられ、巨額の貸付金を反故にされることになった。その上、鈴木との問題を解決しようとしている最中に当事者の一人である西が死んでしまったことは大きな痛手であった。

「A氏は西のことを、どこか憎めないところがあって、ヤンチャな弟のように感じていたのではないだろうか」と複数の関係者は異口同音に言う。しかし、A氏は何とも言えない寂しさや悲しさ、悔しさを感じざるを得なかっただろう。

「西は、自殺することで鈴木と青田に人間としての心を取り戻して欲しかったのではないか」と関係者の誰もが語っていた。

西の死によって誰よりも被害を蒙ったA氏であったが、死後も、妻や長男の相談相手となったようだ。そうして数日が過ぎ、西の死後処理も徐々に落ち着いて行った。

○鈴木の裏切りへの非難と無念さが溢れ出す

西がA氏宛に送った遺書には鈴木たちへの遺書も同封してあったが、鈴木との関わりの全容と思われることが書かれていた。独りの人間が自殺する前に書いた遺書に嘘はあるまい。西が自殺する3年半ほど前の平成18年11月と12月にA氏宛に届いた鈴木からの手紙は、鈴木が「合意書」を否定し、さらに「和解書」の約束を反故にするという内容だった。

この手紙には、西の遺書とは正反対のことが多く書かれていた。この手紙がA氏に届いて以降、鈴木とは音信不通である。自分勝手と思われる言い訳を書き連ね、代理人を立てたとはいえ所在不明のまま裏切り続けている鈴木の手紙と、迷惑をかけたままではあっても自殺直前の西が書いた遺書とどちらに真実があるか。

西の鈴木に宛てた遺書を、抜粋だが以下に挙げる。   

【この手紙は、貴殿に私から最初で最後の手紙であり、正しい判断をするか否かが貴殿の人生を大きく左右することになるだろう。なぜならば、この手紙が貴殿の手許に届く頃には、私は一命を絶っているからである。この最後の手紙は、最初の貴殿との出会いから今までのあらゆる約束事に関する貴殿の裏切り行為を書き残すものである】

【貴殿が真剣に反省しなければいけないことが沢山ある。まず貴殿のずるい考え方や、人間としてやってはいけない裏切り、社長と私、貴殿の三人でして来た、いくつかの約束事に関する裏切行為、私の浅はかな考えから、貴殿の狡賢しさにコントロールされ、社長に大変な実害や信用を傷つけた件、社長を利用することによって与えた大きなダメージなど、貴殿と私で行った社長への大きな裏切りを考えたら、私の一命をもっても償える事ではない】

文面はこの後、出会いから親和銀行事件の経緯と真相、さらにA氏から受けた借財に係る鈴木の騙し、鈴木の逮捕に関連した借財に係る騙しなどが綴られ、株取引の内容についても触れていた。

【宝林株の成功については、私と貴殿の人生を大きく変えたことは確かだ。しかし、利益を上げている間に私をうまくコントロールし、社長にお金を出していただいた最初の宝林株800万株の代金を含め、貴殿に売買を任せる約束をしていたために、主導権を貴殿に取られてしまい、私のやりたい方法ができず、言いなりになってしまったため、社長に本当の事を言えなかった。合意書で利益を3等分するという約束であったが、貴殿に最初の宝林株800万株やその後、行った第三者割当増資で手に入れた宝林の新株も、売買を貴殿が行う3者間の役割分担であったために、貴殿の提案に私は従うしかなかったわけだ。

その後も、第三者割当増資を数十社に対して行ったが、貴殿は報告するだけで、お金のコントロールは貴殿がすべて行い、私は言い訳やウソの報告ばかり社長にすることになったわけだ。しかし、全体の利益については二人の約束があったため、私もそれを信じ、貴殿の言いなりになって社長を欺いてきたわけである。合意書に基づいて1回ずつの取引や利益金を社長に報告していれば、こんな事にはならなかったと、自分の考え方ややり方に呆れてしまっているが、今更社長に何を言っても言い訳にしか過ぎず、本当に申し訳なく思っている。私にとって最大の不覚であった】

【私が絶対やってはいけない事を一番の恩人にしてきたわけだから、私は絶対に許されることではないし、貴殿も絶対に許される事ではない。私は貴殿の汚いやり方をやっと気づいた。貴殿は、どんな時でも、自分が弱い立場にいる時、あらゆる事を言ってでも助けを乞うが、自分が強い立場になった時には、まず1番重要な立場にいて、貴殿のパートナーに近い人間や色々貴殿の秘密を知っている人間を追い落とし、弱くさせながら自分の思うようにコントロールするやり方をずっとしてきている】

【志村化工株に関しては、もっとひどいやり方をさせた。貴殿は、当時、FR社の役員でもあった武内一美氏を私に紹介し、志村株の買収に力を借して(原文ママ 貸して)欲しいともちかけ、購入してくれた志村株については、後に全株を買い取るとの約束のもと、私の信用取引を利用し、1000万株以上の志村株を買わせた。貴殿は一方で、海外で手に入れた志村の第三者割当株(1株約180円)、金額にして約20億円分を売却した。この20億円の購入資金も、貴殿が調達したお金ではない。私は貴殿の言う事を信じて、Eトレード証券で1000万株以上の取引までして、貴殿と武内氏の約束に応じた。志村株についても、買い増す約束であり、私は信用取引を活用していたために、何度も買い増しをするよう貴殿及び武内氏に伝えたが、最終的に約束を守ってもらえず、私は、この志村株の処理に困り、海外の投資家に頼み、志村株を預け、コントロールしてもらった】

西が東京地検特捜部に逮捕され、取り調べを受けた時に、この文面にあるような内容を供述していたら、鈴木は本当に助からなかっただろう。その判断を狂わせたのも、鈴木が隠匿した利益金の分配にあったことを考えると、最小限、A氏にだけは打ち明けておくべきだったのではないか。遺書はまだ続くが、西は自殺することによって鈴木と青田に「約束を守れ」「約束をすぐにも履行しろ」という要求、ただその一点を突き付けようとしたとも思われる。

西は鈴木以外にも青田、茂庭進、そして鈴木の実父徳太郎にも宛てて書面を遺していたが、いずれも鈴木が一日も早くA氏との直接の面談を実現することを促す内容になってはいるが、それぞれ主要な部分を以下に挙げておく。

【青田光市宛】

「貴殿は今回、鈴木氏の件について、色々とアドバイスや協力をしてきた様だが、事の重大さを認識しないで無責任な発言が多すぎたようだ。私のホンコンの件についても、私がホンコンに行っていないとか、そのような事件がなかったとか、社長の会社のエレベーターを止めて鈴木氏を監禁したとか事実でない事ばかりを想像で何事も言っているが、エレベーターを止める事も出来ないし、ホンコンについても犯人は確定していないが、事件があった事も確かだ」(略)

「貴殿は今まで黙って状況を見ている社長の本当の姿を、何にも解っていない。鈴木氏より依頼され、身の回り(周り?)の事、運転手の手配やマンションの手配、鈴木氏のダミー的な事、その他あらゆる事を報酬と引き換えに色々とやっている様だが、貴殿の事についてもほとんどの事が調査済みである。鈴木氏の今後の行動や解決の方法によっては、貴殿の立場も大変な事になるような気がする」

などと綴っているが、鈴木の“黒子”として暗い所ばかりを歩いてきた青田が鈴木との関係で登場するのは、親和銀行事件(鈴木宛の書面参照)や利岡正章襲撃事件など、いずれもきな臭い事件がらみの場面だった」

【茂庭進宛】

「貴殿が鈴木氏の海外の口座の管理や資産管理、その手続を一手にやっておられた事は昔、私の事務所の一部屋を使って仕事をしていた時から分かっておりました。私は、鈴木氏が、大変仕事ができる人をスタッフに持ったと内心びっくりしておりました」

と述べているように、鈴木が決して表に顔も名前も出さないようにするために用意した人物である。茂庭は海外業務に精通した元山一證券マンで、そのノウハウは鈴木が仕掛けた仕手戦で用意したオフショアカンパニーの取得を始め、転換社債や第三者割当増資をこれらのペーパーカンパニーが引き受ける際に如何なく発揮されたことが窺える。

西は茂庭が鈴木の実態や仕手戦の真相をどこまで承知して関わっていたのか、について切り込むように「本当の真実を詳しく書いた手紙を一緒に送らせていただきます。(略)社長、私、鈴木氏と交わした合意書に関して、今だ何一つ実行していない鈴木氏を、私は許すことは絶対にできません」と綴り、さらに「茂庭さんもしっかりと事実の確認をしていただき、鈴木氏と一緒に仕事をするのであれば、自分の立場をよくわきまえて、行動することが大事」と忠告している。

そして、実父・徳太郎に対して西は、自身の裏切り行為への悔恨、そして鈴木が一日も早く合意書に基づいて約束を実行するよう、実父も一生懸命に働きかけて欲しいという文言が書き連ねられていた。利岡もまた平成19年当時、所在を不明にした鈴木と接触を図るために実父の自宅に日参していたが、鈴木は頑として応じなかった。

○ A氏の人間像 

西と鈴木についての経歴、人間性については今まで触れてきたが、A氏の人物像については第1章で生い立ちを触れたが、西と鈴木の二人を、何故に信頼し多額の資金的援助をしてきたのか。また何故これほどの資金力があったのかという点については特に興味深いところだ。

A氏は、社会人となって上京した後、さまざまな営業職に就いてきたが、競争が激しいセールスの世界でも常にトップセールスマンとして業界誌に取り上げられたことも何度かあった。また、友人の誘いで生命保険会社の外交員として日本生命に入社した際には、営業社員が数万人いる中で、契約件数等でトップの成績を残し、所属の秋葉原支部は、それまでは中堅どころのごく普通の支部だったが、それを1年弱で日本一の支部にさせた経歴も持っている。当時は全国に2000の支部があったという。

そんな経験をしながら独立するための資金を貯蓄していく堅実さもA氏は持ち合わせていた。貯えていた独立資金を元手に宝飾品を扱う「株式会社N・E」を立ち上げる。着実に業績を伸ばして行く過程で社員数も多くなり、売上も右肩上がりとなった時期、社屋の移転を計画する。

1960年代の初頭、東京はオリンピックを間近に控えて、都心部では建設ラッシュが続いていた。中でも新宿駅西口地域の、淀橋浄水場跡地に計画された高層ビル群の建設は、戦後の高度経済成長を象徴する典型とされ、三井、住友、安田など名だたる企業グループが先を争うように高層ビルの建設に乗り出し、新宿は“副都心”とか“新都心”とも呼ばれるようになった。京王プラザホテルが先陣を切ってオープンしたのは昭和47年だが、高層ビル街が出来上がったのは1970年代の後半で、昼間の人口は数万人規模と言われるほどだった。新宿センタービルもまた、そのひとつとして朝日生命、大成建設、東京建物などの複合企業体により建設され、昭和54年に竣工した。A氏はこのビルの竣工から数年後に入居した。A氏が27歳の時だったという。

A氏は43階のフロアーでテナントを募集する案内を知り、「これだ!」と感じたそうだが、入居審査が日本一厳しいと言われていた。A氏が応募した43階の東南の角部分は朝日生命が所有しており、他は東京ビューティーセンターと東京モード学園と喫茶室のみであった。入居資格は「知名度があり、家賃滞納の不安が無く、入居したいという強い希望と理由を持っている法人であること」というものだった。

有名大手会社を含めて100社以上の申し込みがあったという。書類審査の段階で5段階にランク分けがされていて、当時のA氏の会社は知名度という点で資格外であったため、5段階中の最下位のランク評価であった。しかしA氏は諦めなかった。朝日生命の面接担当が並ぶ中で一人の取締役に着目し、その人を中心に話し始めた。家賃の滞納懸念については保証金を規定の倍額(1億円以上)支払うと言ったが、規定通りの約5000万円で収まった。

「朝日生命さんも発足当時は知名度がなかった筈。私共もこのビルに移って、これから知名度を上げていきます。何よりもこれから自社が発展していくために、このビルに本社を置くことに大きな意義があります」

と誠心誠意説明した。その結果、その役員がA氏の熱意に感銘し、その場の決裁で、しかも正規の条件で賃貸借契約締結を承諾し、内装工事もその日から始めることも許可してくれたのだった。

新宿センタービルに本社を置いたことで、A氏の会社は益々業績が伸び、梅田の大阪駅前第4ビル、名古屋の住友駅前ビル、札幌、仙台、横浜、博多、といずれも一等地のビルに支社を設立した。各ビル共、入居審査の厳しいビルであったが、日本一審査の厳しいと言われていた新宿センタービルに約100坪の本社を置いていることで、各ビルの入居審査は問題なくクリアできたという。ちなみに、新宿センタービルだけでも1か月の賃料は500万円以上だった。

こうしてA氏は全国展開で業績を伸ばし、1970年代は四谷税務署管内で法人としての納税額が10位以内に入り、三大紙に掲載されたことが実に数回あったほどの隆盛の時代を築いたのだった。当時の四谷税務署の管轄は新宿区内にも及び、日本一税収の多い税務署だったという。

新宿センタービルの43階にあった喫茶室のマスターによると、客の半分以上はA氏の客であったという。A氏は門前払いをする性格ではないために、本業以外でも毎日、分刻みの多忙さだった。そして、本業の業界以外でも有名になっていくに従って様々な事業への資金提供を持ちかける人間、あるいは車や貴金属、不動産、ゴルフ会員権などを売り込むために面会を申し込んでくる人間の出入りも多くなり、A氏の潤沢な資金に狙いをつけて、いわゆる詐欺師や仕事師と呼ばれる人種から持ち込まれる案件も増え始めた。

A氏はこのころまでは、自分のことでのトラブルはほとんどなかったが、知人や友人がトラブルに巻き込まれることがたびたびあった。そんな時、A氏は自分の身の危険も顧みず、単身で相手方と話し合いに行き、トラブルを解決することも一度や二度ではなかったらしい。A氏自身は、どれほどのことをしても、それを恩に着せたり、自慢話にすることは無かったという。

当時、日本で大物と呼ばれた人たちもA氏に金策を頼みに来るようになった。もちろん、金額にもよるが、普通、あまり面識もなく、信用できる保証人やそれなりの担保がない他人に金を貸す人はいない。しかも、一度貸した金を返さなかったら、当然二度目は無い。しかし、A氏は本当に困っているようであれば、何度でも貸している。多額の資金を保有していたとしても、なかなか理解できないことである。実際に、それに付け込んだ悪も何人かいた。

当時、演歌歌手の石川さゆりのタニマチとして週刊誌を賑わしていた医療法人経営者である種子田益夫(後の別件で刑事告訴され実刑)から、彼のグループが関与する九州のゴルフ場やアイワグループへの融資依頼があり、A氏の関係者を含め、数百億円の融資がされた。A氏を欺いた種子田に対しては、西も債権者の一人であった。

また、九州でサーキット場を計画、建設して有名になった「日本オートポリス」の鶴巻智徳(故人)からの融資依頼も挙げられる。A氏を取り巻く多種多様な人間関係の中で、この鶴巻という人物については特筆すべき点があった。

日本オートポリスは、バブル景気真っ盛りの1989年に東京都内のホテルで竹下登元首相(故人)を始め3000人もの招待客を集めた会社設立パーティを開催した。その会場では、東京とパリを衛星回線でつなぎ、開催されたクリスティーズのオークションで、パブロ・ピカソの描いた「ピエレットの婚礼」を5160万ドル(当時の為替レートで約74億円)で競り落としたことで、世界的に有名になった。鶴巻はまた、競馬界でも名の通った存在であった。馬主として100頭余りの競走馬を所有し、中にはエーピーインディのような米国のブリーダーズカップレースで優勝した競走馬もいた。

九州の大分県日田市にレースコースが完成したのは1990年だった。F1開催に向けて約20万人の観客を収容できる施設や高級ホテル、美術館、博物館のほかにカートコース、ヘリポートなども備えた一大リゾートだった。鶴巻は、世界的なF1レースのプロモーターであるバーニーエクレストンとの親交を深める中、ベネトンレーシングチームのスポンサーを1990年から1991年まで務めていた。

A氏と鶴巻が頻繁に交流を持つようになったのは鶴巻が事業の拡大を急ぎ、過剰投資や株式投資の失敗が原因で経営状態が悪化している時期だった。鶴巻はA氏に融資を仰ぐ際に目黒の自宅や軽井沢の別荘地を担保にすると申し出たが、A氏は鶴巻を気遣い、担保設定をせずに融資に協力した。しかしその後、鶴巻は体調悪化から入退院を繰り返す中で事業を復活させることなく亡くなった。

また種子田はA氏とA氏の知人友人から融資を受け、病院の買収を積極的に進めてきた。種子田は病院をいつでも売却して債務を返済すると言っていたが、その約束を反故にしたまま、やはり病死した。A氏、というよりもA氏の友人たちが種子田一族、特に種子田のダミーとして病院グループの理事長に就いている長男吉郎に対して強い怒りを持ち、当初からの約束を必ず履行させるという強い意志を見せている。

 因みに、A氏の度胸の良さについては、それこそいくつもエピソードがあるというが、ある関係者によると、A氏と西の間では次のようなエピソードがあったという。

「西の会社TAHが経営危機に陥ったことは過去に何度かあったようだが、その度にA氏が何らかの支援をして助けていたが、ある時には西の不在中にTAHの債権者であるワシントングループ会長の河野博昌が部下を15人以上も連れてTAHに乗り込み、社内にあったオークションにかける商材を強制的に差し押さえて、同じビルの上層階にある河野の知人が経営する会社に運び込んでしまうということがあった。

どのような事情があったのかは分からないが、河野(元一和会加茂田組のNo.2だったと聞いている)も相当に強引な人だから、会社にいたTAHの役員に差し押さえに同意する旨の書面に署名と押印をさせたうえ、会長室の応接セットに座って、恐らく西の帰りを待っていたのだろう。

 そうした時に、西の関係者からA氏に電話が入り、『すぐに来てほしい』と言うので、A氏が駆けつけてみると、河野以下大勢の部下がいるものだから、会社の幹部や弁護士のほかに反社会勢力でも有名な人間はいたが、怖くて誰も河野に応対できないでいた。そのため、A氏が一人で会長室に向かい、河野と交渉した結果、河野も折れて、一旦運び出した商材を元に戻させ、差し押さえに同意する書面を破棄させた。A氏の行動は周囲にいた者を驚かせ、誰にもできることではなかった」

 A氏と河野は、お互いに名前は知っていても、会うのはそれが初めてであったそうだが、A氏が決して嘘はつかず、約束は守る男であるとは聞いていたようで、何よりも一人で交渉に臨んだことを河野は実感し重く受け止めたに違いない。恐らく、西が帰ってきても、そのような急場をしのぐことなどできなかったに違いない。その関係者によると、「河野の部下たちは、最初は詰め寄ってきたが、河野が『アンタは誰だ』と言うので、『新宿のA氏です』と言うと、河野は非常に丁寧な応対をした」といい、その場を引き上げたという。

 そうした急場を、西は何度もA氏に救われた経験をしていたから、残していた「遺書」にはA氏への感謝と詫びの言葉が幾重にも書き連ねられていた。少し長くなるが以下に挙げておこう。

【A社長、大変お世話になりました。心から感謝申し上げます。私の様な人間を今まで全面的に信頼をしていただき、沢山の資金を出していただき、本当に有難うございました。

(略)私は二十三年前に初めて社長にお目にかかったおり、自分の人生でそれまで誰よりもすごいオーラとカリスマ的な存在感を感じました。絶対に大事にしなければいけない方だと思いました。お会いした後、社長に大きなチャンスや沢山の協力を与えていただきながら、私の片寄った生き方、考え方から、いつもつじつま合わせや自分流の考え方ばかり主張して押し通してしまい、社長の人生を台無しにしてしまいました。社長は考え方が大変まじめな方でいらっしゃいますのに、私は余りにもけじめのない事ばかりして、とりかえしのつかない大きな失敗ばかりしてしまったと思います。

今まで、社長に資金を依頼して一度もことわられた事はなく、人から借りてでも私にだけは、必ず用立てて下さいました。私は、そこまでして用意してくださった多額のお金を投資に回して、成功できる事が沢山あったにもかかわらず、詰めの甘さや人を信じすぎて、最後にいつも大きな失敗をしたり、人を見る目がないために裏切られてばかりで、本当に申し訳ありませんでした。社長が毎日苦しんでおられる姿を見る度に、私は本当に辛くて、極力冷静にふるまうようにしておりましたが、自分の力不足な事ばかりで、本当に申し訳なく思っております。内心では、社長に対して自分でできる事があれば、何でもしようと心がけてはおりました。しかし、それでも、社長に安心感を与えるまでの事は何一つできませんでした。私が行った数々の失敗について、何一つ言い訳ができる事ではありません。

私が一命を絶つ事で許される事は一つもありません。お借りしたり、投資をしていただいたお金につきましても、天文学的な数字ですし、誰以上に社長が私を信用してくださった事、私はすべて解っておりましたが、それも自分勝手な理解でしか過ぎなかった事です。死をもってつぐなう事など何にも社長の役に立つ事ではない事も分かっております。しかし、あらゆる事がうまくいかない状況では、けじめをつけるしか他に道がないのです。社長を残して先に死んで行く事にしても、ただただ、自分ににげているだけで、本当に無責任な事です。大好きな社長の側に、少しでも長くいて、力になれる事があれば、どんな努力でもするつもりでおりましたが、今回は、自分の頭でどのように考えても、生きていく方法を見つける事ができませんでした。

私は本当に大バカものです。(略)色々な事を、自分の中で最大限こなそうと努力だけはしても、いつも相手の方が一枚も二枚も上手で、最後にやられてばかりです。多額の資金の運用をしたり、まかせられたり、管理できるようになっても、後一歩のところで自分のやり方が悪いのか、(略)本当に悔しいです。

 私は、社長のお力に一番ならなければいけない立場なのに、チャンスが沢山あったにもかかわらず、いつも見すかされていて、それすら気づいていない。いつも、今度はかならず成功すると頑張り、結果を出せない自分がおり、この先、どんな努力をしても、あらゆる信用を失ってしまった現況では、もう、どうする事もできません。(略)どんな言い訳も説得もできない事を、自分が自分にしてしまいました。社長に対しても、本当に御迷惑ばかりおかけして、何一つお役に立つ事ができませんでした。どうか、どうか、お許しください。大好きな社長の思い出だけを頭にうかべながら、一命を絶ちます。本当に二十三年間の長い間、大事にしていただき、命と引きかえに御恩礼(注、原文ママ)申し上げます。(一部略)  社長様のご健康、ご発展をお祈り申し上げます】

 本書に関係の無い部分は割愛したが、A氏はこの書面を読んで、何を思っただろうか。鈴木に対して遺した書面とはまるで違って、全てがA氏への詫びで綴られている。

「色々な事を、自分の中で最大限こなそうと努力だけはしても、いつも相手の方が一枚も二枚も上手で、最後にやられてばかりです」

とあるが、ここで言う「相手」とは恐らく鈴木が一番メインになっていたのではないか。前の章で触れた通り、西は鈴木が「合意書」や隠匿した利益金の存在を認め、約束を履行することを強く迫り、その成果が得られなかったとき、A氏には繰り返し「命を懸ける」とつぶやき、そのたびにA氏に叱責された。しかし、そのやり取りも虚しく終わりを告げた。西が「合意書」に係る鈴木との関わりや株取引の詳細を明示する“生き証人”であったことを考えると、A氏にとって最大に悔やまれる出来事になったに違いないし、鈴木は許されざる人間という思いが一層深まったに違いないと思われる。

これまで見てきたように、A氏は関係者との付き合いの中で西を特別に可愛がっていたことが窺われ、鈴木がそれを逆手にとったのは間違いない。鈴木が13枚の手形を担保に約17億円の融資を受けた際にも、A氏は鈴木が西の紹介だったからこそ鈴木に親身になり貸した。不渡りになるリスクが高かったエフアールの約束手形など、極端に言えば何の担保価値も無いことは、A氏自身、西から同社の経営危機を聞いていたからよく承知していたはずで、西から「鈴木を助けてやって欲しい」と頼まれたからこその結果だった。「合意書」にしてもそうだろう。もともと株式相場に何の興味も無かったA氏が資金支援に応じたのは、株取引の実行者として鈴木が西に協力して何らかの成果を出すと期待したからではなかったか。A氏は西に裏切られているとは知らず、西の要請に応じて株価の買い支え資金を出し続けた。鈴木はA氏と西の関係を徹底的に悪用して、A氏への依頼を西に押し付け、株取引で利益が出ると西をも裏切って独り占めを図った。

振り返れば、西は鈴木が親和銀行から融資を受けるために新たな担保が必要と相談を受けると、A氏の会社でコレクションとしてあったリトグラフを本当の理由も言わずに借り出して鈴木に提供した。鈴木(エフアール)は、それで親和銀行から15億円の融資を受けたのである。一般常識からすれば、西も鈴木もA氏に礼を述べてしかるべきだが、鈴木は全くと言っていいほど頬かむりしてしまった。西がその事実をA氏に知らせたのは「合意書」をめぐる鈴木との対立が深刻化して後のことだった。

(写真:債権譲渡契約書。西は鈴木との間で交わした利益分配の約束を履行させることができず、A氏に権利を譲渡することで、鈴木に履行を促そうとした)

A氏は金融業の登録をしているが、それを業としてやってはいないことはこれまでにも触れてきた。だから仮に億円単位の貸付が発生したとしても、借用書1枚で担保らしい担保を取ったことは無かった。それに味を占めて借り入れする側がA氏に嘘をついて騙し、騙しては借入額を増やし続ける。嘘が発覚するまでA氏は債権債務関係を抜きにして以前と変わらない付き合いを続けてきた。西との関係は特別であったとしても、A氏の人との関わりの典型だった。

鈴木はそれを見抜いて、自らはA氏との接触を極力避け、ほとんど全てを西に代理させたのだ。そして、いざとなると尻をまくって知らぬ、存ぜぬを決め込んだ。西がA氏を裏切ったことは最悪だったが、それ以上に西が鈴木を“鬼畜”(人の顔をした犬畜生)と「遺書」の中で罵ったのは無理も無いことだった。

ちなみに、A氏は西が自殺した後、西の妻と子息を伴って鈴木の実父の自宅を訪ねた。妻は西の遺影を持参したそうだが、西を自殺に追い込んだ最大の原因を作ったのが鈴木である、という認識は西の妻にも同じくあり、鈴木の実父にも面識があって「遺書」も送られていたから、実父が西の自殺をどのように受け止めているか、それを確かめずにはおれなかったという。鈴木が所在を不明にしている限り真相は何もはっきりしない、ということもあり、A氏と西の妻と子息、そして鈴木の実父と鈴木の妹が同道して最寄りの警察署に出向き、警察署を介して鈴木の妹が鈴木に電話を架けると、鈴木は電話に出たが、言を左右にして「今は警察署には行けない」と言って拒み、「明日以降で必ずAさんに電話をするから」と言ったにもかかわらず、一度も電話をしてくることは無かった。

ちなみに関係者の中には、鈴木の報復を恐れて口を噤んでいる者も何人もいるが、西が香港に渡航する際に唯一同行した子息、内河陽一郎もその一人である。

陽一郎は父親の無念を考え、先頭に立って関係者にお願いする立場のはずだが、A氏が提起した訴訟において「自分の名前は公表しないで欲しい」との要請をしており、西の関係者もそれに沿った対応をしたが、陽一郎は、勤務する某保険会社のコンプライアンスと鈴木の報復が怖いと言って、関係者の多くが「鈴木は絶対に許せない」という意思で一致して協力しているのを横目に一切の協力を拒んでいる。そしてもう一人、西の部下だった水野恵介も司法書士の資格を西の会社で取らせてもらいながら、西への恩義を忘れたかのように思われる。

「西が香港で殺されかけたのを身近で実感したのは陽一郎だった。何より陽一郎は、西の部下の水野とともに西の指示でいくつもの書面を代筆し、鈴木との株取引や日常の関係をよく承知していたはずだから、陽一郎や水野が、西が鈴木の犠牲になって東京地検に逮捕され有罪判決を受けたことや、鈴木や青田の関係者に尾行されて神経を尖らせた揚げ句に自殺をしてしまった無念さ、鈴木への恨みを共有しないということが不可解でならない。何と言っても実父の無念さを考え、多くの関係者に礼の言葉があってしかるべきだ」と口を揃える。

もう一つの理由に陽一郎が挙げるコンプライアンスだが、陽一郎が保険会社に就職するに当たって、当然身上調査が行われたと推測されるが、実父西義輝が相場操縦の容疑で逮捕され有罪となり前科がついたこと、さらに鈴木に追い詰められて自殺した事実を知れば、会社としてのコンプライアンスを気にして鈴木への対応で「関係するな」と言う上司はいないはずだ。まして、仮に陽一郎が会社の意向に沿わず鈴木に対峙したからと言って、それで陽一郎を責めることはできるはずがない。

「西が自殺した後、A氏は西の家族のために複数の債権者に対しA氏個人で億円単位の債務を解決させた。A氏は西に総額で323億円もの資金を出し、その全額と言っていい金が焦げ付いたままだが、A氏は何も言わずに来た。そうした実情を知れば、陽一郎も会社を辞めさせられることにはならないはずだ」と、多くの関係者が陽一郎の人間性に大きな疑問を感じている。

鈴木は平成18年10月16日と23日のA氏との面談内容を反故にした揚げ句、「和解書」は強迫されて書かされた、と主張するようになったが、そうであるならば、こうした警察署での面談など、鈴木にとって絶好の機会であったはずである。それを鈴木自身が拒否した。