第6章 深まる対立
西と共に仕掛けた仕手戦で得た利益金を、鈴木が独り占めしたことによって深刻な対立が始まる。少なくとも鈴木が利益金を隠匿したことで、一番割を食ったのはA氏に他ならなかった。利益金を得るために市場で株式を高値誘導し、買い支えをしなければならなかったが、その資金を出し続けたのがA氏だったからである。
だが、西と鈴木の対立が深刻化する中で、鈴木は所在を不明にすることでA氏や西との接触を徹底的に避けた。そして鈴木は側近で“汚れ役”でもあった青田と弁護士の平林を楯にして、A氏や西とは一切向き合わなくなったのである。
これら両人は、問題を解決するどころか逆に紛糾させるだけだった。青田は「鈴木はA氏と西に脅かされて怖くなり、和解書に署名しなければ、その場を切り抜けることができなかった」と言い出し、また弁護士の平林は“強迫”を基に「心裡留保」というありもしない状況を根拠に「和解書」の無効を主張した。
強迫や心裡留保に当たる言動は「和解書」の作成後も鈴木からはなく、またA氏に送られた2通の手紙にも一切なく、支払の撤回は西と紀井の情報漏えいを理由にしていた。したがって、平林が鈴木の依頼に応えて主張した「強迫」や「心裡留保」は苦肉の策で作り出した後付けに過ぎなかった。
ちなみに、厄介ごとを依頼すると、金のためなら何でも引き受けて協力する青田は、鈴木にとって都合の良い人間だった。青田は親和銀行の美人局事件の遙か前から、鈴木が関わってきた一連の事件には必ず登場していた模様だが、青田と共謀することで鈴木の秘密がギリギリで守られてきたと言っても過言では無かろう。
A氏は、鈴木が代理人を立てたことに反発し、平林から頻繁にA氏の会社に面談要請の電話が入ったが、A氏はしばらくの間、応じなかった。しかし、放置しても状況は変わらず、不本意ではあったが、鈴木の希望に沿う形で仕方なく代理人として知人から紹介を受けた利岡正章という人間を立てた。
利岡は、先ずは鈴木の身辺調査から始め、鈴木の実父の自宅マンションを何度も訪れ、鈴木がA氏と直接面談の機会を持つよう説得したり、鈴木がひた隠しにしてきた住居(東京都内の高級マンション)を突き止め、郵便受けに手紙を入れるなどして鈴木に姿を現す様に促したが、鈴木は一度も姿を現すことはなかった。それ故、代理人の平林との面談と書面のやり取りを1年以上にわたって続けた。
ところが、あろう事か、平成20年6月11日午後3時頃、二人組の男に襲撃される事件が起きた。利岡が住んでいた静岡県伊東市内のパチンコ店の駐車場で待ち伏せしていた二人の男たちが、突然、金属バットのようなものや素手で殴る蹴るの暴行を利岡に加えた。救急搬送された伊東市民病院の医師の診断によると、鼻骨骨折、腕の粉砕骨折、全身打撲等の瀕死の重症で、全治3か月とのことだった。
利岡によると、襲撃犯には明らかに殺意があったという。ただし不幸中の幸いで、利岡は格闘技の経験があったようで、咄嗟に頭部をガードしたために一命を取り留めた。同日付の報道によると、伊東署が傷害の容疑で逮捕した二人組は、暴力団稲川会習志野一家の幹部と千葉県船橋市在住の無職の男だったという。
ところが、事件の翌日、利岡が入院している病院へ習志野一家の下部団体の「渡辺」と名乗る組長が唐突に利岡を訪ねてきた。
「自分が責任を持って襲撃の真相を聞き出し、利岡さんにはきっちりケジメを付けさせるので、告訴を取り下げて欲しい」
組長は、そう懇願したという。瀕死の重症を負わされたにも拘らず、利岡はその言葉を信じて告訴を取り下げたという。その結果、襲撃犯二人は起訴猶予となり釈放された。その後、利岡は組長に対して、約束通りに真相を明らかにさせようと催促するが、組長は「もう少し待って欲しい」と時間稼ぎをし続け、挙げ句は別件で逮捕されて服役してしまった。利岡は「組長(渡辺)は、自分が別件で逮捕されることを知っていて、時間稼ぎをしていたかも知れない」と、自分の周囲の人間に話していた。組長は、襲撃を実行する時点で、すでに逮捕される容疑が別にあったのだろう。それを知っている人間が渡辺を利用して、利岡との折衝をさせたのではないだろうか。それが事実ならば、当然、鈴木から青田経由でかなりの礼金が出たに違いない。
襲撃事件の真相が解らないまま時間が過ぎたが、利岡は鈴木(青田)が絡んでいると確信し、独自のルートで調べていたところ、青田が習志野一家の幹部(NO.2の楠野伸雄)と昵懇で、複数の幹部たちに多額の金を融通していることや、事件後、青田が幹部に対して「自分との関係(約20年の付き合い)は一切ないということにして欲しい」と釘を刺した事実を前述の幹部自身から確認したという。さらに青田は事件後に習志野一家の幹部や構成員らを海外旅行に連れて行ったり、車を買い与えていることが判明した。この金は全て鈴木より出ていたことは容易に想像できる。
複数の関係者の証言によると、利岡は調査の結果を次のように語ったという。
「青田が、親しくしていた幹部に利岡襲撃を依頼し、その幹部が配下の組員に指示して二人の実行犯に襲撃を実行させた」
しかし、その組長が逮捕されたことに加え、鈴木と青田が金に任せて証拠隠滅工作をしたため、彼らまで捜査の手が伸びることは無かった。
鈴木が隠匿している資金の一部を、青田が習志野一家を始め多方面に運用していたことも周辺関係者の証言で判明している。また、鈴木の代理人である平林が習志野一家の総長(木川孝始)とも少なくとも2回以上面談していた事実も判明している。
「平林は、総長との会話の中で、鈴木と青田が襲撃事件に関与している事実を実感し、代理人としての職務から腰が引けていったようだが、鈴木と青田を切り離すようにして、万一の時は青田が習志野一家に個人的に頼んだことで、襲撃事件に鈴木は一切関係していないという形を取る方法も考えていたのではないか」といった話さえ、真偽は不明ながら浮上したのである。
平林は、何故、習志野一家の総長と面談を重ねる必要があったのか。場合によって平林の行為は、弁護士法に違反するものとして厳しい処分が科せられるのは明らかであろう。
利岡は、渡辺組長の説得に応じて実行犯との間で示談を成立させたが、しかし襲撃事件の真相が分からずじまいとなったままとなった。いずれにしても、この事件を切っ掛けとしてA氏、西、鈴木の関係がさらに泥沼に入って行ったのは間違いのない事実だった。
○ 代理人
ここで当時のA氏の代理人であった利岡と、鈴木の代理人である平林がやり取りした書類の要点に触れる。すでに述べてきた部分と重複する内容もあるが、この事件の経緯と全容らしきものが見えてくるので敢えて触れる。
鈴木から代理人に指名された平林は先ず、何よりも合意書を必ず無効にするように鈴木に強く指示されたことが窺える。平林の回答書や反論文で驚かされるのは、「合意書」を指して「こんな1枚の紙ペラで……」と表現している箇所があることだ。およそ、弁護士とは思えない言い方である。
平林は、先ず「合意書」が無効であるであることを盛んに強調した。しかし、その根拠が書面のやり取りをするたびにころころとすり変わっていった。例えば、「宝林株の買取り資金はA氏から借りていない」と強調した点である。
反論の当初では①「買取り資金はワシントングループの河野氏から借りた金だ」と主張した。しかし、間を置かずして②「宝林株は売買の話ではなく、ファイナンスの依頼だったので、買取り資金は必要なかった」と言い替えた。しかしこれも、宝林株を取得した「バオサングループ」など3社は鈴木が用意したペーパーカンパニーで実態がないことは明らかだった。さらに③「買取り資金3億円は、自分(鈴木)が稼いで留保していた金を買主の会社に貸し付けた形で決済した」とまで言い替えた。そもそも、平成10年の年末、鈴木は保釈中の身で自暴自棄になっており、借金を返す当てさえなかった事実から、わずか数カ月後に自己資金を用意できる訳がなかった。宝林株の取得に係る大量保有報告書や変更届に「紀井義弘より借入」などと記載して、紀井の名前を無断で使っていたこと(虚偽申告)が判明している中で、これら①②③の主張は全く根拠が無く、支離滅裂だった。まして、その後④「西は、いい加減な人間なので、西と同席で交わした書類は無効」とも主張したが、こうした主張を基に「合意書」は無効だから、「鈴木には支払責任はない」とするのは、弁護士にあるまじき弁明ではないか。
そもそも根拠となる主張が二転三転するのは、その主張が主張たり得ないことを強く疑わせる。
先ず①と②については、最初から売主のロレンツィ社と交渉していた西の話からすると、有り得ない話である。③については、親和銀行事件で社会的な信用を失墜して、複数の債権者に返済も出来ず、酒に溺れて自暴自棄だった鈴木の状況からして非現実的である。鈴木は、あくまで西を“悪者”にして自身を正当化させようとしているが、西の証言は揺るがない。また、④については、鈴木の一方的で自分勝手な言い分であり、主張にもなり得ないことは明白である。
ちなみに、鈴木は平成18年10月16日の和解協議の際に、「合意書」について「俺は宝林だけ利益を分ければ済むと思っていた」と、株取引のスタートが宝林であったことだけは認めていた。それが、平林の主張では「合意書」に基づいた株取引は存在しない、となるのは余りにも整合性がない。宝林株を取得してから合意書を交わすまでに1か月以上の時間が空いていたことを含め、西は「合意書」を作成した理由について、次のように記している。
「平成11年7月8日に合意書を作成した理由は、今後このユーロ債を活用した株式売買は莫大な利益を生むことになるので、多額の金銭を貸し付けて戴いているA氏に、書面で二人の誠意を理解していただき、借入金の返済期限の猶予を戴きながら、今後必要とされる資金の協力も併せてお願いをし、ついては今後の利益の分配を約束するためでした。
宝林株については、平成11年7月初めの段階でユーロ債の決定も含めて利益が出ることは分かっていましたが、合意書を交わした時点では、次にユーロ債を発行できる会社がまだ決定しておらず、株式の銘柄やユーロ債の価格等を決めることはできませんでした。また、2億5000万円をA氏からお借りし、残り5000万円はTAHの仮払金(注:5月20日頃にA氏から借入れた分)を活用して購入した宝林株(平成11年5月31日)の時には、合意書を交わすような状況ではありませんでした。なぜなら、うまくいくかどうか分からない初めての手法を活用しようとしている株式取引でしたので、そもそも利益が出るかどうかも不確実であったため、利益の分配の合意を交わすには時期尚早だと思ったからです」
なお、平林は、宝林株売買の決済時に同席していた買主の代理会社フュージョン社の担当者の証言を添付していたが、同社は事実を客観的に証言し得る「第三者」とは言えない。鈴木とフュージョン社は、株取引に際してSECからマークされるほどの関係にあったことは明らかだった。いわばフュージョン社にとって鈴木は大事な取引先なのである。それ故、鈴木の不利になる証言をするはずがなく、むしろ、鈴木の有利になるような嘘の証言をしているのが明白だった。
加えて、西と鈴木が仕手戦を始めてからかなりの時間が経過している中で、日時や数字の詳細について記憶に誤りが生じるのはごく自然だが、自分の嘘を誤魔化すために西側の記憶違いなど上げ足を取って、鈴木の発言を正当化しようとしている部分が多々あり、平林の主張は見苦しい限りだった。
鈴木が過去に摘発され、あるいは関与を強く疑われた事件は、これまでに触れた通り、いくつもある。保険金詐欺事件(宝石盗難偽装事件)、親和銀行事件(商法違反・特別背任事件での、頭取のスキャンダル捏造、模造ダイヤを担保にした巨額の不正融資)、福岡の不動産業者が殺された件で警察から事情聴取を受けた件など、さまざまな事件に直接的、間接的に関わった事実が指摘されてきた。そして、そのたびに疑わしい発言や行動が目立った。
○和解書無効を頑なに主張する鈴木
西と鈴木が展開してきた仕手戦を巡っては、特に鈴木が海外に隠匿し続ける利益金について、自身の存在を消すために他人を利用しているだけでなく、脱税、詐欺行為、外為法違反、金商法違反等の法律違反さえ強く疑われていた。鈴木の、その場逃れの言葉を真に受けて、事の経緯を無視し、明らかな虚言に矛盾も感じないで反論を繰り返す平林には、それこそコンプライアンスで弁護士資格を問われる深刻な問題を抱えることになると思われる。
平林による「合意書」の無効についての主張の一つに、宝林株の買取り時期と合意書締結日の時間のズレというのがあるが、多くの関係者の話を総合すると、真相は以下の通りだった。
宝林株の売却情報は、平成11年3月頃にTAH社の株主である河野の紹介で勧業角丸証券課長の平池某からの情報が発端であった。西は宝林株に興味を持ち始め、平池と協議しながら情報を収拾し調査をしていたが、鈴木が親和銀行事件で刑事被告人となり、表に出られないため、西一人でA氏から資金3億円を借り受けて宝林株を買い取り、利益を上げる手法を平池と模索していった。西は徐々に確信に近い手応えを掴むが、西と鈴木には宝林株の株価を買い支え、高値維持を図るための資金を調達する力が無い。そこで、A氏を訪ね、「自分たちが再起して、借りている金を少しでも返すには株で儲けるしかありません。今、宝林という株がチャンスと思います。協力して頂けませんか」という話をした。
A氏が宝林株の買い支え資金を西に預け、西田晴夫という有名な相場師も介入したことにより、株価が上がり短期間で巨額の利益を得ることが出来た。利益金の管理を担当していた鈴木は、海外に設立、購入したオフショアカンパニーを拠点にして、A氏と西に利益金の詳細報告もせず、その後は取得した利益金の一部で複数の銘柄を仕込み、西による株価維持の中で高値売り抜けを成功させ、利益を増大させていった。鈴木の手腕も流石ではあったが、元はといえば最初の3億円、そして、その後の株価の買い支え資金があればこそ成し得たことであって、「合意書」に記載された条項を遵守しなければならないのは当然のことだった。しかし、鈴木は西を篭絡してA氏が保管している「合意書」を何とか破棄させようと謀った。
「利益を二人で分けよう。そうしないと、借金の返済はいつまでも出来ない」
だが、この時、西も利益金隠匿の実態を正確には知らされていなかった。鈴木にしてみれば、宝林株で巨額の利益を得ることが出来たために、その後の展開を考えると、どうしても「合意書」を締結した事実が邪魔になる。一番の理由は不正をしたら取り分の権利は喪失すること。そう考えた鈴木が、西に「合意書」を破棄するように金の力で何度も説得を続けた。
以上のような経緯から、平林が何の思慮も根拠も無く鈴木の言葉を鵜呑みにしていることが解ってくる。
さらにまた、平林は「(合意書には)取り扱う株の銘柄が記載されていない」と主張する。しかし、銘柄の欄を空白にするとしたのは他ならぬ鈴木自身だったのである。しかも、これについては、西と鈴木が仕掛けていく株の銘柄は宝林1社だけではないと強調することを忘れなかった。二人は“相場は見切りが重要”なことを充分承知していた。利益が出ようが損失が出ようが、見切りのタイミングを逃さないように手仕舞いをしつつ、次の銘柄を仕込んでいく。一度に複数の銘柄を仕込んでいくことも当然あった。従ってその都度、合意書を書き換えていたのでは売り買いのタイミングを逃しかねない、というのが鈴木の説明だった。しかし、鈴木が最も恐れたことは、書き換える度にA氏に収支を報告しなければならないことだったに違いない。最初から利益を独り占めすることを計画していた鈴木は、後日、「合意書」の無効を主張するためにわざと空白にしたのだろう。鈴木は、自分の計画を成功させるために、あらゆるトラブルの発生も予想して用意周到な準備をしていたことが窺える。
因みに「合意書」に基づく株取引が宝林株以後も継続していた点について、西は平林の主張に反論していたが、例えば、エフアール株については「エフアールの600万株の買い注文は私が入れたものでは無いということであれば、その根拠、証拠を示してください。出来高があまりない状況の中で買い注文を実行するわけがないとの指摘がありますが、その当日に全ての株数を購入したとは誰も言っていません。紀井氏の証言にもありますが、少なくても買い注文の半分以上の株数が私の買い付けた部分であることは間違いありません。
これに関しては、平成12年11月にエフアール株が100円を割り込んだ時に、昭和ゴムの株券100万株(当時の金額で約2億円)を鈴木氏より預かり、これで何とか解決してもらえないだろうか、ということを鈴木氏から言われました。(以下略)」
と言って、平林に具体的な説明を求めていたが、しかし、平林から明確な説明はなかった。
○「鈴木は精神錯乱状態で署名指印した」
「和解書」について、平林はその作成当時の鈴木について「尋常な精神状態ではなかった。そんな状況での和解書締結は無効」と主張した。その理由として、
①事務所のエレベーターを止められ監禁状態であった。
②元警察のOBが隣室にいて無言の圧力をかけられた。
③西が香港で襲われて殺されかけた事件の容疑者にされそうになった。
④紀井の裏切りによるショック。
といった点を挙げて、鈴木が精神錯乱状態であったという。しかし、①ついては、エレベーターのメンテナンス会社へ問い合わせた結果、「エレベーターを止めることは出来ない」という回答書面を鈴木側に送付しており論外だった。A氏は罵り合う西と鈴木に「下の喫茶店に行って、話をまとめてきなさい」と言ったくらいだ。②は明らかな言い掛かりであり、警察のOBは西の顧問であったが、階数も違う別室にいたので、鈴木は全く知らないことであった。③についても、そもそも西が香港に出向くことになった目的が鈴木から利益金の配当を受け取ることにあり、その結果、事件に巻き込まれた。鈴木の関与を疑わざるを得ないのは当然のことだった。とはいえ、それらの疑念は「和解書」作成とは直接関係が無いことだった。自分が無実であれば、何の心配も要らないことである。ちなみに、この三者協議で西が香港事件を話題にしたのは最初のわずか数分で、残る時間は全て原点に戻って「合意書」を守れという話に集中していた。
鈴木は「過去に何の関係も無い事件の容疑者にされ、実際は無実であったのに、その事により、社会的信用を失墜してしまい、仕事に大きな影響が出た。今回もその時と同じ事態になると思った」と平林に話しているというが、前述したように、鈴木は自身が重要な容疑者なのに、金の力で嘘の証言をさせて罪を逃れたことはあっても、無実なのに犯人にされた(されかけた)ことなど無い。また、④について、「和解書」作成に前後して、紀井が真実を証言した事実を鈴木が知ったことで裏切られた、ショックを受けたというのは、まさに「合意書」に基づいた株取引が継続していた事実がA氏にバレたことによるショックであって、図らずも“飼い犬に手をかまれた”かのごとく裏切られたとするのは、決してまっとうな理由にならず、辻褄の合わない言いがかりだった。しかも、その後は鈴木自身が電話で和解書の支払約束を何度も追認しているのだから、支離滅裂である。
弱者には強気だが、自分の立場が悪くなると被害者のような言動をする。それが悪人の常套手段と言えるが、それが鈴木にも当てはまっていた。
香港での殺人未遂事件については、西のパスポート、香港警察、病院、領事館の書類が揃っていて、西が香港で殺されかけた事件があったことについては間違いはない。そして、「鈴木より分配金の受け取りで香港を指定された」という証言がある以上、原因の究明を行うのは当然のことだ。前述したように、西が香港の事件に触れたのはほんのわずかで、話の大半は「原点に戻れ」と強調していた。
A氏が宝林株の仕手戦で西から受領した15億円は、利益配当と返済金の一部であったが、鈴木は裁判の途中から「全て返済金である」と言い変えた。平成18年10月16日の三者協議で「JASの件では双方に支払い済み」であると言っておきながら、それを忘れたかのようなすり替えだった。この発言で「合意書」は有効であることを鈴木自身が認めたのだから、当然、15億円は利益配当分ということになり、全く鈴木の言い分は有り得ない主張という結果になっていた。
鈴木は、平成11年9月30日にA氏への借金を全額返済しているとも言うが、平成14年6月27日にA氏と会った際、「西に渡した10億円はA氏への返済金だった」と言っていたにもかかわらず、裁判の後半では「10億円の話はしていない」、「記憶がない」「6月27日には会っていない」に変わった。10億円の授受で言い逃れできない西に、それを無理やり認めさせた上で、改めて残額15億円の借用書を書いた事実を鈴木が説明出来るはずは無かった。しかも鈴木はもちろん西が作成した「借用書」にも当日の確定日付がある。また、同年12月24日に鈴木は10億円を持参しているが、鈴木がそれまでにA氏に渡した金銭は借入金の返済ではなく、全て「合意書」に基づく株取引で儲けた利益の配当金の一部なのである。前述したように、西が15億円をA氏の会社に持参した翌日(平成11年7月31日)、西と鈴木がA氏の会社を訪れた際に、A氏が15億円の処理について確認すると、西も鈴木も同意していた事実があり、西と鈴木はそれぞれ5000万円を受け取ったことでA氏に礼を述べた。返済金ならば、そんな授受は有り得なかった。そして、鈴木が「合意書」を反故にして利益の独り占めを謀ったことを咎められた結果、平成18年10月16日に作成された「和解書」でも二人は不正を認めている。こうした事実や経緯を無視した主張を繰り返していることが、まさに鈴木の嘘を明確に裏付けている。
○手形処理を誤ればエフアールは上場廃止
遡って、鈴木はA氏から借金をするに当たって、エフアールが発行した多額の約束手形を差し入れていた。そして、手形の期限が来た際に決済できず、手形の期日を書き換えるという行為を繰り返した。また、鈴木が親和銀行事件で逮捕、起訴された時期には、同社常務の天野が決算対策を理由に手形の一時預かりを西経由でA氏に依頼し、A氏がそれに応じた。
そうした手形を巡るA氏と鈴木とのやり取りについて、平林は、例えば、上場会社の代表取締役が約束手形の期日の訂正をしていることを咎めもしないどころか、A氏の手元に手形の本書が存在しないことを理由に、債務不存在の証拠として反論しているのが全く不可解である。
鈴木が平成14年6月に書いた15億円(実際は25億円だが)の借用書は過去の負債をA氏との間で整理して書いたものである。従って手形の原本がないことを理由には出来ないことに気がついていない。
また、平林は弁護士でありながら、約束手形の重要性や上場会社の監査というものを全く理解できていないのではないか? と何人もの関係者も指摘するが、鈴木にとっても上場会社が商取引以外で約束手形を振り出すことは、代表者である鈴木の背任になりかねない行為である。手形で借りた金が会社の資金繰りに使われていたならばともかく、個人的に流用していたら立派な背任行為となり、犯罪を問われる行為だった。
平林はさらに「振り出した手形は簿外口座のもので監査には影響が無く、現物を監査のために借りる必要が無い」と主張しているが、上場会社の監査はそれほど甘いものではないはずだ。それ故に、借入先に対して預り証を提出し、「監査があるので一時手形を預からせて頂けませんか」という“情実”が取引先間の慣例となっていることはよくある話だ。
鈴木は若くして会社を上場させたが、そのことで会社を健全に運営し強化していくのではなく、一般投資家を含めた投資家から集めた資金を、代表取締役の座を私物化して自分の思うままに流用し、資金繰りに窮すれば、簿外の約束手形まで振り出すような、いわゆる虚業家だったのではないか。代表取締役を退いた後も強い影響力を行使しながら、結局は上場廃止処分(商号変更したクロニクル)を受けている。しかも親和銀行事件で退任を余儀なくされた鈴木は、債権者に対して個人保証をしていない債務については、「私は現在社長ではありません。会社名義の手形、借用書については会社に請求して下さい」などと平気で嘯いた。これでは投資した人達は騙されて詐欺にあったも同然である。
例えば、平成10年12月25日付のエフアール社の「監査報告書」の特記事項欄に、当時、代表取締役の鈴木は、個人の借入金約5億3000万円と、親和銀行事件の際に設立したペーパーカンパニーのワイ・エス・ベルの借入金1億3000万円を会社に債務保証させている事実を記載した。そして「各保証先の財政状態が悪化しており会社は、債務保証の履行請求に基づき債務を弁済することになる可能性がある」との記載がある。正に鈴木の職権乱用と背任行為が証明されるような事実であろう。
以上がA氏の代理人となった利岡と、鈴木側の平林がやり取りした複数の書面の要点だが、鈴木の、利益金を独り占めしたいがための辻褄の合わない言い分と嘘が透けて見える。さらに、弁護士でありながら、それを正当化しようとしてもがいている平林の節操の無さが同時に問われる。
ちなみに、鈴木がA氏に宛てた手紙の中で、鈴木は「紀井氏の言っている数字は表面上の数字で」あると、利益金の隠蔽をほぼ認めている。また「国内外の移動という現在最も難しい事まで何故一人でやらなければならないかということが納得出来ない」と愚痴めいたことも言っているが、鈴木自身がそのことでA氏や西に相談したことなど一度も無かった。これは、株取引が一端終了して後に利益を3等分するときに言う話であった。そして「宝林株は西の提案で始まった」と、西との仕手戦の仕掛かりを手紙でも認めており、「社長のマイナスになるような事は絶対しません」としていたのだ。
想像の域を出ないが、A氏もどこかでそのように思っていたのではないだろうか。いや、そう思いたかったというのがA氏の本心かも知れない。そうであれば、鈴木を翻意させる何があったのか。鈴木の周辺で起きた多くの不審な事件も含め、やはり鈴木の行状は疑惑だらけだった。
しかし、A氏も我慢の限界であった。株取引に係る一連の経緯を公にすれば、鈴木や周辺関係者の数々の違法行為は間違いなく白日の下に曝され、法律に則った罰を与えられることも間違いの無いことだ。
○鈴木は所在を不明にした
鈴木の代理人であるもう一人の男、青田についてはどうか。青田が、親和銀行不正融資事件の核心となった美人局スキャンダルに加担して、頭取(当時)の辻田と女性のホテルでの密会場面をビデオに収めた“張本人”であったことは前にも触れた。ある意味で青田こそA氏、西、そして鈴木の三人の関係に大きなヒビを入れた張本人である、というのが関係者全員の印象だった。それは、鈴木がA氏や西に所在を不明にする中で、青田がA氏や西(特に利岡)に対して取った対応が、交渉を攪乱させただけでしかなかったからだ。
関係者の中には、「3者で和解書を作成した時点では、鈴木はまだ約束の一部でも果たす積もりだったのではないか」と推測する向きがあった。その根拠は、鈴木が「和解書」の作成後、A氏の会社を出た後に紀井に電話を入れ、「100億円以内で済みそうだ。ただ、香港の金がバレないか心配だ」と話していたからだという。
また、和解書締結後に鈴木の方からA氏に何回も電話を入れて、西が蒙った買い支えのための損失額等を確認している言動からも、解決に向けた意思が推察できるのではないかという。
平成19年に入り、A氏と西は鈴木と直接の連絡が全く取れなくなった。所在も不明で、日本国内にいるのか、それとも海外なのか分からない。直前の12月に鈴木からA氏に「社長も代理人を立てて欲しい」という手紙が届いたが、A氏は「合意書」も「和解書」も三人で決めたことなので、三人で話し合いをするべきだと考えていた。
そんな時期、知人の紹介で利岡という男がA氏の会社に出入りするようになった。利岡は調査能力もあり、交渉力もあると判断したA氏は、代理人を立てることは不本意ではあったが、鈴木の身辺調査と共に鈴木側の代理人である青田、平林両人との交渉役を利岡に依頼することになった。
利岡はその後2年以上をかけて鈴木の身辺調査を行った。調査によると、鈴木は10人前後の女性を囲い、日本国内はもとより海外にもモナコ、フランスなどに高級コンドミニアムを所有していることが分かった。
「モナコのコンドミニアムは20億円以上で買った」と鈴木自身が周囲の人間に自慢していたという。しかも、こうした物件は全てタックスヘイブンに設立したオフショアカンパニーの名義になっているので、表向きには鈴木の名前が出てこない。100社を超えているというオフショアカンパニーを存分に活用してきた恰好だ。数年前に売りに出した東京都内のマンション(ドムス南麻布)も同様だった。これにも青田が関係していた。
また、青田が周囲に語っているところによると、鈴木が「F1レースのスポンサーになる」という話も出ていたが、100億円近い資金が必要と言われる中で、前述のモナコにコンドミニアムを購入したという話と連動しているのかもしれない。モナコではF1世界選手権のレースが開催されるからだが、これまでに触れてきた株取引の詳細が公の場で明らかになれば、鈴木が犯してきたいくつもの違法行為が暴かれるに違いない。
A氏の関係者による調査には念が入っていた。例えば、鈴木の愛人のマンションは、成田空港から何回も車数台、バイク数台等で追尾した結果で探り当て、そのマンションに鈴木が出入りしている情報も掴んだ。そこで、メールボックスへ手紙を投函するなど、鈴木をジワジワと追い詰め、姿を現すよう促した。一方で、鈴木の実父や平林、青田を通じて鈴木に、A氏や西との話し合いに応じるよう求めることも忘れなかった。
利岡は鈴木の実父と1年半以上かけて何回も話し合い、実父も「息子は会わないとは言っていない。必ず息子に会わせる」と約束したことが一度や二度ではなかったようだが、平林の時と同様に時間稼ぎであったのだろう。時には、「息子の代理人の平林弁護士は使えないと息子が言っているので、今後は息子の力になって欲しい」と利岡に頼むことさえ何回もあったという。実父は「天野さんは、誕生日には毎年、電話をくれたり、いろいろ気を遣ってくれる」とエフアール役員だった天野のことは信頼しているようだった。
また「息子と青田のやっていることや人格についても以前から気になっていたが、決してまともじゃ無い」と強調していたという。
だが、そうした利岡の努力は、殺人未遂事件という正反対の事態を引き起こした。この事件は、利岡が所在不明だった鈴木の所在を突き止め、また鈴木の近親者に積極的に働きかけて、鈴木にA氏との直接の交渉を促した行動が、鈴木に危機感と恐怖心を与えることになった結果の事件だった。関係者は、次のように言う。
「利岡が襲われて死にかけたという事態が起きて、真っ先に頭に浮かんだのが、西が香港で殺されかけた事件だった。真相は未だ不明だが、これは極めて重大かつ深刻な話だ」
その後、利岡が独自に調査して、自身の襲撃事件に青田の教唆事実が浮かび上がった。その報告を受けた関係者は、鈴木や周辺関係者が人の命までも狙う手段さえ厭わない連中であることを実感したという。
A氏の周囲の人達の中には「目には目という諺がある。こちらも考えましょう」と強硬に言う人もいたようだが、A氏は「こんなやり方を許す訳にはいかないが、相手と同じやり方はしない。同じことをすれば、自分たちも相手と同じ次元の人間に成り下がってしまう」と周囲を宥めたという。A氏にすれば、あくまで代理人に過ぎなかったはずの利岡が襲撃された衝撃は大きかった。
利岡が襲われ、瀕死の重症を負わされた。利岡は「襲撃した犯人からは、明らかな殺意を感じた」という。鈴木に関わった人間の中で、鈴木が「コイツは自分にとって不都合な奴だ」と感じるような出来事が起きた場合、その人間は不可解な事件に巻き込まれてしまうという事実がある。そして、不可解な事件が起こることによって、鈴木の秘密が露見しないまま事が終わってしまうのも確かなことだった。
○青田の無責任さが交渉を混乱させた
青田が代理人となってから、A氏、西と鈴木の対立関係がより深刻になったと指摘する関係者は多い。
鈴木は株の関係者達に「青田は口が軽いから」と口止めしていたので、青田は株の利益等について全く知らなかった。そんな人間に交渉の窓口をさせること自体、鈴木が前向きにトラブルを解決する意思など全くないということが分かるが、案の定、青田は「そんな金を払う必要はない」とか「俺が上手く処理するよ」と鈴木に言ったという指摘もある。
「青田は、社長との話し合いを、誠意を以てすると口では言いながら、実際にはA氏や西を誹謗中傷することに終始していた。また、自身の立場が不利になると、決まって『俺には関係ない。A氏と鈴木の問題だ』と言って逃げを打っている。卑怯な男と言わざるを得ない」
誹謗中傷の内容は、例えば「(鈴木が)話し合いのためにA氏の会社に出向いた際にはエレベーターを止められ、事実上“監禁”されたようなもので恐怖を覚えた」とか「西は香港で殺されかけたと言っているが、そもそも香港になど行っていないじゃないか」とまで、根拠のない話を周囲に吹聴したという。ちなみに、鈴木の実父は利岡に対して、「息子と青田はまともな人間ではないが、いくら何でも人殺しはやらないと思う」と繰り返していたという。
関係者の証言から次のような出来事も浮かび上がった。ある時、関係者が青田の自宅を訪問したことがあった。すると青田は「暴力団が殺しに来ているので助けて欲しい」と上野警察署に電話した。通報を受けた上野署の警察官が来て大騒ぎになったらしい。その人間はもちろん暴力団員ではなく一般人だった。上野署に連行されたが、その後、誤解が解け釈放されたという。
青田は常に関係者が“反撃”(報復)してくると思い込み、それを恐れる余りに事態を深刻にする、と関係者が続けて言う。
「青田自身が稲川会習志野一家のNo.2とは20年来の付き合いを続けてきた。鈴木のカネを利用して羽振りの良さをひけらかし、彼らから『上野の会長』と呼ばれている男だ。そんな男が、自分の都合で警察と暴力団を使い分けるなど、気の小さい卑怯な奴です。本性は胆の据わっていない臆病者ですよ。自分が犯した罪の重さを考えれば、安穏な暮らしなど出来るはずはない」
また別の関係者によると、「A氏は、青田の殺人未遂教唆等について、直接習志野一家の最高幹部に会って、話し合おうとしたようだ。そうした状況下でも鈴木や青田に『誰を同行されても良いですよ。A氏は一人で是非お会いしたいと言っている』と伝えたが、実現しなかったようだ」という話もある。仮に面談が実現していれば、鈴木・青田の真実が垣間見えたに違いなかった。
鈴木から流れてくる金については、一部で次のような疑念も囁かれている。青田の義兄は埼玉県内にキャンパスがある某私立大学の教授、学部長を務めているが、その学部長昇進に当たって、「青田が相当な資金援助をしたのではないか」という風評が一連の調査、情報収集の過程で浮かび上がっていた。
ちなみに、関係者が青田の義兄に手紙を送ったところ、義兄は青田とは「20年前より関係は切っている」旨の返事をしていた。しかし、その返事が来るまでに1ヶ月以上の時間があっただけに、青田と相談した結果ではなかったか、と思われる。その後、義兄の妻(青田の実姉)が貸金返還請求訴訟の裁判を傍聴していた模様だという話も聞こえているからだ。
○平林弁護士の主張をエフアールトップが否定
西の話によると、以前よりA氏は平林からの反論文の中に「天野が言っている」という内容に納得できないことに加え、天野に直接会って確認したいことがあったことから、天野に面談を申し込んだという。その時、天野は「鈴木からA氏には会わないようにと強く言われているが、内緒にして頂けるのであればお会いします」ということで、天野とA氏は二人だけで会うことになっていたが、西が「どうしても同席したい」と言って、A氏の会社で三人で会うことになった。
天野は、鈴木が親和銀行事件で有罪判決を受け、エフアールの社長を退任してから、なが多・クロニクルと社名が変わる中、重役として会社を守ってきた人物である。鈴木の尻拭いも含めて債権者への対応にも追われていた。A氏は、鈴木が「A氏からの借入れは全て返済している。その証拠に、預けていた手形も返してもらっている」と言っていることについて、天野の見解を聞いた。
天野は「当時、エフアールには全く金が無く、返済は出来ていないし、平成10年の決算時に同様のことをやって貰っていた」と言った。そして、「あの大変な時期に、A氏だけは、励ましの言葉をかけていただき、『もし、どうしても困った時は連絡下さい、出来ることは相談に乗ります』と言ってくれました。そんな人は社長だけでした。鈴木にも、『A氏みたいな人はいない。感謝しなければいけない』と言ったのを覚えています」と続けた。天野は債権者と応対する中で暴力的な仕打ちを受けることもあったようだった。面談に同席した西も「(天野氏は)A氏には本当に感謝しているようだった」と語った。
そして、紀井が書いた鈴木の株取引の明細を天野に見せた。そこには470億円という利益金の詳細が書かれていた。天野は何かを確かめるような目つきで何度も見つつはっきりと「これ位はあります。いや、もっとあったと思います」と言い、その後「この金はA氏の金だと鈴木より聞いていました」と言った。
このときA氏は、以前に天野と赤坂の店で会った時、彼の取り巻きに「うちの鈴木はこちらの社長に数百億円もお世話になっている」と会う度に話していたことがあったが、その時はA氏にはその意味が分からなかった、という。西もA氏よりそのことを2度ほど聞かれたが、「(天野氏は)酔っぱらっていたのではないか? と話をはぐらしたのを覚えている」と周囲に述べている。
ある時期に鈴木が巨額の資金を有している事実を天野が質すと、鈴木が「A氏の資金だ」と答えたというが、しかし、天野から話を聞いて、鈴木が利益を隠匿していることを隠すために言っていたのだということを初めてA氏は理解した。また、西は西で、紀井証言の確証が得られたことを確信した。何より鈴木の側近中の側近である天野の証言は、鈴木、平林の主張を打ち砕く根拠になるに違いなかった。
A氏との対立が深刻になる中で、鈴木は天野に「A氏とは絶対に会うな」と命令したにもかかわらず、前述したように鈴木には内緒でA氏と会ったために、鈴木からひどく咎められ、以来、二人の関係は険悪になったという。ちなみに、天野の急逝について、会社側は「自宅で病死」と発表したが、実際には新宿の京王プラザホテルの客室で死亡し、それには鈴木が関係しているという話は何人もの関係者から聞いた。また、天野が保釈後の鈴木に「A氏には感謝しなければいけない」と言った趣旨の話をしていたというが、そのことについて鈴木は「和解書」作成時にA氏に感謝の言葉を伝えていた。