第2章 合意書

鈴木による巨額脱税疑惑事件の発端は、西が買収を仕掛けた「宝林」(現サハダイヤモンド)株の仕手戦にあった。平成11年2月某日、TAHの株主だったワシントングループ(代表 河野博昌)の紹介で、勧業角丸証券課長の平池某が宝林株800万株の売却情報を西に持ち込んできた。株を保有しているロレンツィ社(イスラエル)の資金繰りが逼迫し、すぐにでも宝林の800万株を売却したがっているという。西は早速調査に入った。そして平池と協議を重ね、利益の創出方法を模索した結果、ユーロ債(10億円単位の小規模な私募債=CB)に着目する。西と平池は、宝林で実施する第三者割当増資でユーロ債を発行することで利益が見込めると判断する。西は平池との協議に確信を持ち、1か月ほどかけた調査を終えた同年4月、宝林株の買収を決断した。

西はA氏の事務所を訪ね、宝林の800万株の買取りを決定したことを伝え、買取り資金3億円の調達を依頼した。A氏は西の説明を聞いて資金を用意することを約束した。そしてA氏は、買取り決済日(5月末)前に先ずは5000万円を西に預けた。ただ、この時、西には懸念があった。それは刑事被告人となっていた鈴木がこの取引に関与していることがロレンツィ社に知れたら、株の買取りが失敗に終わるのではないかというものだった。

 西が宝林株の買取りの経緯を記した書面があるので、それを参考にすると、西と平池は民間信用調査機関から資料を取り寄せたり、知人の宝石・貴金属業者から情報を得るなどして、直近で宝林が倒産する可能性は無いという結論に達し、その年の5月20日頃にロレンツィ社の代理人を東京に呼ぶことにしたという。

ロレンツィ社の幹部社員のほかに弁護士2名を交え、交渉は約10日間に及んだが、平池が「宝林の株価は70∼120円前後で推移しているが、1株当たり40円前後を念頭に交渉を進めるように」との情報を入れていた。ロレンツィ社はロシアの株式投資で巨額の損失を蒙って資金繰りに窮し、6月末までにまとまった資金を得ないと倒産の危機さえあるから、というのが理由だった。要は、売買価格は十分に交渉ができる、ということだった。つまり、株式の売買契約は事実上成立したものの、売買金額については交渉の余地が残されていたことになる。

交渉は非常に難航したものの、「5月29日の夜半に『5月31日までに売買代金を支払ってもらえるなら、1株37円で売却しても良い』という提示があった。私(西)は鈴木氏に対して、この経緯をその都度伝えており、翌5月30日、鈴木氏に仲介会社の紹介を依頼したところ、鈴木氏は『フュージョン社という会社があるので手続きに関しては任せてほしい』と私に告げた」(西の書面より)

次いで、株式の買い取り資金の調達に話が及んだ時、鈴木が「自分は今、刑事被告人という立場で信用も無いし、ましてや多額の借金や保証債務を抱えているので、資金調達は無理です。西会長、何とかA氏にお願いして出してもらうことは出来ませんか」と西に懇願したという。そして、前述したように、西がA氏に連絡を取り、3億円の資金手当てを依頼すると、A氏から数時間後に「資金の用意ができた」旨の電話が入った。

西が鈴木に電話を入れ、資金調達ができたことを告げると、鈴木が「フュージョン社に全てを伝えたので、証券の受領その他については彼らに任せてほしい」という。5月31日当日の朝、西は残る2億5000万円をA氏から受け取った。

その後の経過から推察するに、鈴木は肝心のロレンツィ社との交渉や株式の買取り資金調達には関与しなかったにもかかわらず、株式買取りの手続きでは鈴木の息のかかったフュージョン社に一任させ、宝林株800万株を手許に引き取るために西を外しにかかっていることが窺える。

「鈴木が刑事被告人であることを相手方に隠さなければ、株式買い取りの交渉は決裂する」という西の危機感は杞憂に終わったが、鈴木の思惑は全く別の所にあったのだ。

平成11年5月31日に宝林株の買取りが実行されたが、西と鈴木は“株の相場は水もの”であることを充分承知していて、目論み通りに利益を上げていくには株価を上昇させるための買い支え資金が安定的に必要になってくることを当然のごとく承知していた。しかし、資金力の無い二人には、勝負どころで継続的に資金調達が出来なくなることが最大の不安だった。そして、困った時はA氏に縋るしかないという結論に至った。しかし、これ以上の資金を提供させるには、A氏を納得させるだけの条件を提示するしかない。そのような結論に達するまでに約1か月という時間がかかったという。そして7月8日、西と鈴木がA氏を訪ねることになったのだった。

○鈴木が熱弁を振るい説得

A氏を前にして西が「宝林株の件で」と口火を切ると、それを受けて鈴木が「ここ数年で(証券市場に)20∼30億の授業料を払ってきたので、今後は株投資で儲ける自信がある」と熱弁を振るった。取得した宝林株800万株を高値で売り抜けるためには相場を維持させる必要があり、継続的な資金が必要になるので、その資金の支援をお願いしたいと、何回もA氏に懇願したという。「この株取引が成功すれば、さらにほかの銘柄でも実行します。それで、社長からの借入も返済できるし、私も西会長も自信があります」とまで鈴木が強調したことから、A氏がようやく資金提供を了解すると、西が「社長、今の話を書面にしましょう」と言う。その結果、その場で作成されたのが「合意書」(別掲)だった。

(写真:平成11年7月8日、A氏と西、鈴木が交わした合意書。A氏から株取引の買い支え資金を引き出すために鈴木は一人熱弁を振るった)

この「合意書」を見れば、「プロローグ」に触れた通り、株式の銘柄を記すべき欄が空白となっていた。だが、それがまさに狙いで、「合意書」を交わした三人が互いの信用を前提に承知していればこそ、最小限の文言に留めたともいえる。情報が漏れることに神経を使い、何事にも慎重で秘密主義を徹底する鈴木の意向が強く反映した書面と言っていいのかも知れなかった。

西と鈴木による株取引は、その後、宝林株だけでも約200億円もの巨額の利益を叩き出した。しかし、鈴木はA氏に利益金の報告や配当金の分配を「合意書」通りにせず、利益金の一部を資金として次から次へ仕掛ける銘柄の仕込みを繰り広げて行ったが、実は利益金の大半は密かに海外に送金(もしくは持ち出し)して、隠匿し始めたのである。鈴木はその事実を誰にも知らせることなく、鈴木だけが知る秘密で、わずかに西は利益が海外に流出していることは承知していても、金額や隠匿方法など詳細を知ることはできなかったという。

この時期の証券市場で注目された仕手銘柄の大半、例えばエフアールに始まりエルメ、イッコー、アイビーダイワなどが、西と鈴木によって仕掛けられていた事実が判明している。この頃から証券取引等監視委員会(SEC)や検察庁も二人の動向に注目していたと思われる。その後、西と鈴木が対立したことで初めて明らかになったことだが、「合意書」に基づいた株取引を開始してから約7年めの平成18年の時点で、ようやく鈴木が隠匿していた利益金の総額が判明した。額面では実に500億円に上っていたのである。

もちろん、これらの隠匿資金は外国為替及び外国貿易法(外為法)に触れるだけでなく、申告も一切していないから所得税法にも触れ、発覚すれば全額没収される上に、当時、鈴木は保釈中(その後は執行猶予)の身にあったから、すぐにも刑務所に服役するという状況にあった。

鈴木が株式を取得して売り抜け、利益を隠匿するという一連の作業で、どうしても必要だったのが、外資を装うペーパーカンパニーだった。そこで、先ずは宝林の株式800万株を買い取るペーパーカンパニーを5月20日前後に用意したのを皮切りに、ユーロ円建転換社債を引き受ける投資会社を海外のオフショア(タックスヘイブン)に相次いで設立、あるいは買収していった。

オフショアとは金融用語でタックスヘイブン、つまり租税回避地の同義語として用いられている。租税回避地とは香港やシンガポール、ケイマン諸島などのように、いわゆる資産や投資活動に対し非課税か、または課税率が極端に低い地域(国)のことである。すなわちオフショアカンパニーとは、租税回避地(国)に設立する法人のことであり、当然その目的は租税の回避にある。鈴木はフュージョン・アセットという会社からの斡旋で3社のオフショアカンパニーを用意した。西が「ロレンツィ社の役員を5月20日に東京に呼んだ」と鈴木に耳打ちした直後の素早い動きだった。

 そして、株取引が西の手で開始されると、証券市場では宝林の株が異常なほど高値をつけて行った。値を上げる好材料が特にあった訳では無かった。A氏からの資金提供を受けて相場の底上げを図った西、そして鈴木と交友のあった西田晴夫(「伝説の相場師」と呼ばれたが、別銘柄の相場操縦容疑で逮捕、起訴され公判中に死亡した)も加わり、激しい売買を繰り返した結果だった。後に明らかになったことだが、「セレブ夫妻殺人遺体遺棄事件」の被害者となった霜見誠もこの仕手戦に参画していたという。ロレンツィ社からの買取り時の株価は1株37円であったが、わずか3か月の間に一時、1株2300円まで高騰し、鈴木は当初購入した800万株と第三者割当増資の株、さらには転換社債で生み出した400万株を高値で売り逃げた。その結果、200億円を超える巨額の利益を上げたのである。西田へ支払った配当金の他、さまざまな経費を除いても鈴木の手許には実に160億円を超える利益が転がり込んだ計算になる。もちろん、この利益は「合意書」に基づき、西の株取引に係る経費やTAHのマネージメント料10%を引いた後に3等分して、A氏と西に配当しなければならない金だった。ところが最初の取引にも拘らず、鈴木は合意書を反故にし、逆に西への篭絡を始めたのだった。

○「合意書を破棄して2人で折半しよう」

「合意書を破棄してA氏さんを外し、二人だけで儲けよう。そうしないと、A氏さんからの借金すら返せないだろう?」

と鈴木は西を唆し、西にA氏が所持している合意書を何とか理由をつけて破棄するよう、執拗に迫ったという。合意書の破棄を実行させるために、隠匿している利益金の中から総額10億円を複数回に分けて西に渡していた。呆れたことに後年、鈴木は西に渡したこの10億円について、「A氏への返済金として西に渡した」と言い出すのであるが、それは後に触れるとして、西は10億円を受け取ってしまったため、鈴木には「合意書は始末した」と嘘の報告をし、A氏にもその事実を隠し通してしまった。もっとも、西がA氏に「合意書を破棄して欲しい」などという話を出来るはずは無く、A氏もそうした経緯など知らないまま保管していた。このことが、後に西と鈴木が修羅場を演じる要因となった。西の証言がある。

『平成11年7月30日、私がA氏の会社を訪れ、「お蔭様で15億円儲かりました」と報告をし、現金15億円を持参した。A氏は合意書に基づき、一人が5億円だと思っていたが、私が「自分と鈴木の取り分も5億円ずつですが、これまでお借りしている返済金の一部として10億円も持参しました。鈴木も承知しています」と言って、15億円全額をA氏に渡した。A氏はその時、私と鈴木が合意書に基づいて、約束通り配当金を持参したと思い、その中から「二人で分けるように」と1億円を私に渡した』

後に分かることだが、この15億円はA氏の信頼を厚くするための見せ金で、今後もA氏から資金提供を受けるための西と鈴木の芝居であった。そして驚くことに、後になって鈴木は「合意書に基づいた株取引が実行された事実は無い」と言い出し、「合意書」などそもそも実行していないから無効であり、それ故、この15億円は配当金などではなく、A氏への借入金の返済であったと言い変えたのである。 この時点で、宝林株取引での純利益は少なくとも160億円を超えていた。すでに二人の裏切りが始まっていたのである。いや、最初からの計画を実行しただけと言うべきかも知れない。

また、西がA氏の会社に15億円を持参した2カ月後の9月30日、A氏はエフアールに対して「債権債務はない」とする「確認書」を交付した。鈴木はA氏から融資を受ける際に手形か借用書を預けていたが、決算対策上は処理しておかねばならず、前年の平成10年9月にA氏は手形の原本を渡して、監査法人の監査終了後に問題なく戻ってきたため、同様に協力したものだった。平成10年の決算時には、鈴木は拘留中だったから、腹心の天野が西を介してA氏に依頼し、A氏も応じたのだが、この時にはさらに「確認書も欲しいと鈴木が言っている」と言う西の話に、A氏はためらった。しかし、「どうしても決算対策で必要なので」と言う西に便宜的に作成したに過ぎなかった。西はA氏が作成した「確認書」がエフアールの決算対策に必要な便宜的なものであることを確認するという趣旨の「確認書」を別に作成して、A氏に渡した。

(写真:平成11年9月30日、A氏は鈴木の依頼により手形原本の戻しと「FRに対し債権債務はない」とする確認書を交付したが、これは同社の決算対策のため便宜的に作成された)
(写真:平成11年9月30日付確認書。鈴木にFR社の手形を戻し、併せて交付した確認書が便宜上作成されたことを証明する同日の確認書である)

A氏は、鈴木はともかくとして西に対しては、よもや裏切られるとは考えてもいなかった模様で、宝林株での利益金は15億円であったという西の報告を真に受けたし、前述のように返済が一切ない鈴木(エフアール)に対して「債権債務は無い」とする「確認書」を出すことなど危険なことだったが、西が別途に「エフアールの手形13枚をお預かりしましたが、決算が終了次第すぐにお返しします。又、確認書についても平成11年9月30日に完済して一切の債権債務はないと言う書類になっていますが、これも鈴木義彦氏に頼まれ便宜上作成したものです。平成11年9月30日はA氏には一切返金されていません」と書いた「確認書」を作成したことで、それにも応じた。ちなみに、鈴木は西が「確認書」を作成しA氏に渡していたことを知ってか知らずか、裁判に臆面もなく証拠として提出した。しかも鈴木側が提出した「債務完済」の主張の証拠はこの「確認書」一点のみだった。

西は、この時点では利益金の総額や隠匿方法を正確には把握してはいなかったようだが、実情をA氏に報告する機会は無かったのだろうか……。

「合意書」の主旨は、仕手戦を継続するにしても「仕掛けた銘柄ごとに一旦は結果を出し、精算をした上で次の仕掛けに取り組む」となっていたが、西と鈴木はその後、A氏に明確な報告を避けるようになり、特に鈴木はA氏の前に姿を見せる機会を作らなくなった。

「今後は株式の取引、ユーロ債の取り付け交渉等に集中したいため、対外的な窓口は、西会長に任せたい。他の誰とも接触させないで欲しい」

 この時期、鈴木は西にこのような要望を出していた。さらに、 「他にも多数の借入先があり、居場所等も全てが落ち着くまで、株関係者にも全て内密にして欲しい」と言うことも忘れなかったという。

西の「合意書を破棄した」という言葉を信じた鈴木は、宝林株で味を占め、宝林と同様にユーロ債を発行する手口でエフアール株を始め複数の銘柄の株を仕掛けていった。但し、この成果の裏には、A氏が西の株取引で株価維持のために出した総額約200億円の資金支援があり、また西による株価の買い支えだけでも58億円以上の損失が出ていたのだった。西が平成19年4月15日付けで記述した書面には次のような件がある。

「鈴木氏からどうしてもエフアール株を買って欲しいという依頼の下で、平成12年4月25日~30日にかけて、エフアール株約600万株の買い注文を実行いたしました。買い注文を入れたと特定できる理由としては、私は平成12年2月25日~平成12年4月25日頃まで自身の腸の手術のために入院しており、病院ではそういった買い注文を出せない状況であったからです」

鈴木が利益を獲得している一方で、西の手許には買い漁ったエフアールの株券が大量に残り、結局は売って損失が増えるばかりだった。そして、こうした状況下で、後日事件になる志村化工株の購入もあったと西は語っている。

○株取引の窓口「FEAM」社で高級車を乗り回す

鈴木は親和銀行事件での有罪判決を逆手に取り、表面に出ることを極力避け続けた。その一端として平成11年9月に設立されたファーイーストアセットマネジメント社(以下「FEAM社」という)があった。対外的な交渉の窓口として鈴木は表に出ずに、同社を介して西が全面的にサポートする体制になっていた。宝林株を仕掛けた当初は、西の会社(TAH)が担っていた役割を肩代わりさせることがFEAM社設立の目的ではあったが、鈴木には別の思惑があったと思われる。

「合意書」に基づけば、仕手戦を仕掛ける銘柄に関するマネージメント料としてTAHに利益金の10%を支払うことになっていた。鈴木にとっては、「合意書」をどこまでも反故にするために、西から10%のマネージメント料を要求される根拠を排除する必要があったのではないか。それ故に、TAHとは別のマネージメント会社を設立することで、西に合意書の効力を主張させないようにする作戦だったのだろう。鈴木は既に西さえも排除して利益金を独り占めするために、用意周到な準備をしていたことが窺える。

ちなみにFEAM社は「ユーロ債発行会社との交渉やコンサルタント」が会社設立の目的だったが、鈴木は実に横着な要求をいくつも西に申し出た。そのひとつが専用の車と給料の提供だったそうで、「鈴木は『FEAM社より専用の車と専属の運転手を用意して欲しい』と言い、さらに『収入があることを見せたいので給料を出して欲しい』とも言った」

鈴木は「関西のグループとの付き合いで、私に見栄も必要となって来るので、黒のベンツにしてください」とか「給料は社会保険付きで」などとも言ったというが、ベンツの購入代金が1400万円、専属の運転手の雇用では1999年9月から2000年12月までおよそ1200万円、他にもガソリン代や維持費等で250万円がかかり、給料に至っては2250万円を支払ったという。西は、なぜ鈴木の要求を呑んだのか? 

だが、鈴木の要求はそれだけではなく、鈴木の愛人と鈴木の実父にそれぞれ50万円と60万円の給料を支払う約束をさせられ、それに伴う費用が約2000万円を要した。また、鈴木と同じく警視庁に逮捕されたエフアールの専務だった大石の妻に5000万円の貸付が発生した。「鈴木と大石は公判中でもあったため、鈴木から『大石の口を封じたい』という要請があった」という。これらの支出は、鈴木が責任を持って利益を積み上げるという約束の下に西は実行したというが、鈴木からFEAM社への返還はなかった。こうした鈴木の要求に応えて西が出費した金額は7億円以上に及ぶが、それもA氏から出ている。

鈴木は以前より 自らスカウトしてきた紀井義弘と茂庭進という二人の元証券マンに指示して、紀井にはオフショアカンパニーの所有名義となった宝林の800万株、さらに第三者割当増資と転換社債で生み出した株式を売りにかけさせ、茂庭にはオフショアカンパニー名義での新株の購入から、証券口座への預託、その後のプライベートバンクに開設した口座への利益金の移動に係る手続等の管理を行わせた。だが、紀井にも茂庭にも、吸い上げられた株式の売却益(利益金)の行方だけは知られないように努めた。つまり、表向きには、宝林、その他複数の銘柄の株の仕手戦を仕掛け、巨額の利益を上げていながら、そこには「鈴木義彦」の名前は一切存在していないという体裁を作ったのである。仮に金融商品取引法(旧証券取引法)で咎めを受けることがあるとしても、鈴木がオフショアカンパニーの事実上の“オーナー”であることさえ知られなければ、利益金について追及されるリスクは少なからず軽減される。鈴木は、自らの存在を消すことに細心の注意を払っていたのである。

西の証言によると、例えば宝林株の海外引受会社だけでも10社はあり、エフアール株では5社、ヒラボウ株では4社、アイビーダイワ株では1社というように、鈴木は仕掛ける銘柄ごとに引受会社を新たに購入、設立することで“仕掛けの正体”を分からなくさせ、役割を終えた受け皿会社はいつの間にか清算してしまうという周到さだった。

例えば、宝林は平成11年6月10日付でユーロ円建転換社債約9億円を発行する旨の公告を日経新聞に掲載したが、そのユーロ債を引き受けたのがオフショアカンパニーであった。このユーロ債は、その後の、7月1日から株式への転換(転換価格130円)が始まり、ホーリーマネージメントリミテッド(本社ケイマン 57万6000株)、テラディベロップメンツリミテッド(本社香港 46万2000株)、ゴールドシャインホールディングスリミテッド(本社香港 43万2000株)という株主が登場した(平成12年3月期有価証券報告書)。これら3社の代理人は、いずれも杉原正芳という弁護士であるが、同弁護士は、そもそもロレンツィ社の保有株800万株を引き受けたバオサングループの代理人であったことから、鈴木がフュージョン社を介して支配下に置いたオフショアカンパニーであることが読み取れる。

さらに、紀井の証言によると、「これらのペーパーカンパニーが合計4200万株を1株200円~230円で取得し、その後、平成11年8月から平成12年2月にかけて1株260円~360円で転売されているので、鈴木氏の挙げた利益は25.2億円~54.6億円になる」と断じている。

平成10年頃から平成12年頃にかけて「黒い眼の外資(外国人)」という言葉が証券市場では流行したが、鈴木が新たに支配下に置く外資を装ったペーパーカンパニーで引き受けた株式を、鈴木が契約している証券口座に移した上で「香港を中心とした海外の証券口座から売りをかけているように見せかけていた」(西を含む複数の関係者の証言)という手口が、まさに「黒い眼の外資(外国人)」の典型であった。また、紀井も次のように証言する。

「宝林株の売却は、ほとんどが証券金融会社を通じてなされています。これは、鈴木氏の名前が表に出ないように隠すためです」

鈴木は、紀井に東京・芝公園3丁目にあるマンションの1DKの部屋をあてがってこれを事務所としつつ、宝林株の売却に専従させた。但し、事務所は芝公園から新橋、西麻布、麻布十番と4か所ほど変わったという。特定の銘柄を一方の鈴木(紀井)が売り浴びせ、一方の西が買いあさる。さらに西田晴男を始めとする仕手筋も相場に参加するとなれば、人目につきやすいのは当然だろうから、金融当局が監視の目を厳しくするのを見越して事務所を転々と移していた、というのだ。

その時期の鈴木にしてみると、親和銀行不正融資事件の刑事被告人で保釈中の身だったから、当然の工作だった。鈴木は、この二人の元証券マンが日常で行っていた仕事の内容を秘密にし、西にも殆ど知らせてはいなかった。さらに紀井、茂庭の二人も、お互いにどのような分担で仕事をしているかを知らされていなかった。つまり、鈴木は西と紀井、茂庭のそれぞれの仕事について関係を遮断して、オフショアカンパニー(プライベートバンク)に吸い上げられた利益金の実態を誰にも不明にしていたのだ。

○鈴木は実父や愛人へ給与を払わせた

FEAM社では、鈴木本人並びに鈴木の実父や愛人への給料、ドライバーと車にかかる経費などで年間5000万円が支払われていたという。この資金も全てA氏が西に渡した資金の中から出ている。

鈴木は自らの存在や関与を隠すべく、同社の一室に茂庭を置き、前述したオフショアカンパニーの買収に係わる手続きや、株式売却後の利益処理(隠匿)などの作業を全て担当させていた。茂庭という男は元山一證券に在籍し、スイスを始めとする海外での経験が長く、山一證券が破綻して自主廃業する直前の3年間は香港山一に在籍していた人物である。

前述したとおり、鈴木が隠匿を続けてきた巨額の利益金については、日本国に1円の税金も払った形跡は見られない。つまり、紀井や茂庭が担ってきた作業は鈴木の脱税、外為法違反に大きく関与(幇助)していたという事実がある。しかし、西はその当時、茂庭が担っている作業内容を把握することが出来ていなかった。茂庭は、自身の行っている日々の作業が、不測の事態が起きて事件化した場合に備えて作業の詳細を周囲に語れなかったろうし、また、鈴木が金の力で口封じをしているため、鈴木の目論見通りに利益金に係る正確な情報の秘匿は守られていた。

ユーロ債の引受会社で新株を売り抜け、その後、投資会社に利益を預けるなどして最終的に利益金を隠匿する。このスキームに関与したのはフュージョン社で、同社が香港やバージン・アイランドに設立した法人(ペーパーカンパニー)で利益金を管理していた事実も判明している。しかし、このフュージョン社もまた目立ち過ぎたのか、SECに目をつけられる事態となって、平成12年末にシンガポールに本社を移しつつ社名を変えて活動を続けたという。

そして、いつの時期からか利益金の管理は紀井に変わっていたと事情に詳しい関係者は言う。この時期(平成13年頃から同14年頃)は、後に殺害される霜見との関係が始まった時期でもある。鈴木は、株式を売却する場面では、西が買い支えをして株価を吊り上げた銘柄を紀井一人に「売り」一辺倒の指示を出して利益を上げていた。その場合でも、鈴木が海外に密かに設立させたプライベートバンクに繋がる証券会社、日本国内の証券担保金融会社の名義で株式の売却を行っていたため、表向きには鈴木の存在や関与は一切見えてこなかった。紀井が株式の売り抜けの現場を、次のように語る。

「平日の午前8時から午後3時ころまでの間、パソコンで宝林株の株価をチェックしながらタイミングを見計らって売却をしていたが、すべて任されていたので、売却金額の打ち合わせはほとんどなかった」

また、転売利益は証券金融会社の担当者が毎日のように現金で事務所に届けに来たというが、その模様はひどく生々しい。

「届けられた利益(株式の売却利益)はビニールで包んで1億円につき1パックにまとめられ、私はそれを事務所のクローゼットに積み重ねていました。多いときは段ボール箱(3億円)が20箱ほどありましたので、合計60億円の現金があった。これ以上の現金は海外の約10社のペーパーカンパニーに口座を開設して、そこに分散して保有した。その後、ペーパーカンパニーは平成18年ころまでに20社くらいに増えた」

鈴木が数多くのペーパーカンパニーを抱えていたのは、第一には第三者割当増資や転換社債の受け皿会社が「ひとつの会社で5%以上の株式を保有していると、大量保有報告の申告義務からSECなど金融当局に目を付けられるので、これには大変に気を使っていたからです」(紀井)

そして第二には、利益を海外に流出させる際に流出先を分散させておけば、複数のプライベートバンクに預金、運用するに当たっても、すべてが発覚するリスクは避けられると考えてのことであったろう。

株式相場を作るとは、株価の高値維持を図ることで、そのための資金が必要である。本来ならば鈴木が管理している、それまでの利益金の中から拠出するのが当然であったが、鈴木は、A氏に合意書に基づく利益額の報告も配分もせず、利益金額の保管場所や総額を秘匿していたから、自分が隠匿している利益金から買い支え資金を拠出することは一度も無かった。西が宝林株を始めいくつもの銘柄で買い支えた資金は全てA氏が負担していた。

ちなみに、鈴木は独り占めをした利益金の一部をA氏以外の債務の返済に充てていた模様で、その債務とは「山内興産との和解金約4億円」や「親和銀行への損害賠償金約17億円」のほかに「ノモスへの返済金1億5000万円」などがあったと紀井は言う。  親和銀行事件(商法違反)で鈴木は平成12年に懲役3年、執行猶予4年の判決を言い渡されていたが、この損害賠償金を支払う示談は判決の直前に成立しており、それがなければ、鈴木は執行猶予を得られず実刑となっていたと思われる。また、鈴木が貸金返済や和解金の支払に充てた原資は株取引で獲得した利益の一部だから、「合意書」に基づけば明らかな流用となり横領そのものだった。